まずはおひとつ

会話

 月明かりが辺りをぼんやりと照らしている。椿の花が静かに首を項垂れる池のほとりに、は佇んでいた。何をするでもなく、ただ静かにたゆたう水面を眺め、時折吹き抜ける風に髪を揺らす。静かな横顔が、ふと緩む。
「珍しい。由君がこの時間帯に、部屋の外を出歩いてるなんて」
 からんころんと下駄を鳴らしながら近づいてくる由の姿が在った。赤いマフラーがゆっくりとたなびく。
「なんか、目が覚めちゃって」
「そっか。最近、忙しいみたいだしね」
 すぐ隣まで来た由の、いくらか自分よりは低い頭を優しく撫でる。そういう行為に慣れていない由はむず痒そうにをちらと見上げるが、抵抗はしない。はいつも、どこでも由の頭を撫でる。由はいつまで経ってもこれが苦手だった。
 祭りからずっと、由には忙しい時期が続いている。「食事」の相手が見つかり、さらにシンの偽物騒動。
 は今までずっとゆったりとした生活ペースだった由には辛いだろうと思案しているが、生憎とそこで留まってしまっている。
 狭塔さんや灯守、兎たちのようにしっかりとした目的があればともかく、彼の今の仕事はこの神社の経理担当だった。あまり「食事」自体を好まないため特別強いわけでもなく、なかなか思うように行動できないというのが強かった。
(ま、僕自身の問題も在るとおもうんだけど)

「大変じゃない?」
 横に垂らす髪を弄りながら、は何気なく質問を投げかける。
「大変……うーん、そうだなあ……。大変と言えば大変かな。色々と難しい事がたくさんある」
「ヒトビトはややこしいよねえ」
「でも、ちょっと楽しい……かな?」
「へえ」
 いつもの緩い笑みを浮かべて由は星の瞬く夜空を見上げた。
「今までオレ、こういうことも全然なかったから。みんなと関われて嬉しいのかも」

 の腕が伸び、くしゃりと由の髪をかき混ぜる。喜びと不安の混じる色で、は微笑んでいた。
「そんなお前が僕は大好きだよ」
「……アリガト」
「僕は正直な所を言うとね、由」
 髪をぐしゃぐしゃにする手を止めて、小さく由の顔を覗き込む。
「お前がシンの容れ物だから好きだとかそういうんじゃないんだよ。お前だから、僕は好きなんだよ」
 シンという名前に由の顔色が変わる。もう知ってるんでしょう? と優しく問いかける。由は複雑そうな顔で、頷いた。
「シンだから、じゃなくて、お前だから。由だから。ね」
 ふわりと笑うに、由は声を無くして視線をそらした。
 さわり、と夜風が吹く。


お勤め

「阿部さん達! もっと動いて! 何その動き! 正月の忙しさ舐めてるの!?」
「あーはいはい。頑張って働いてるから」
「すみませーん」
「はい! お待ち下さい!」
 ぱたぱたと忙しない足音を立てながら、が客の元へ駆けていく。
 年始の忙しさときたら、これ以上はないだろうというほどだ。人手を増やせばいいのに、と毎年のように吹き荒れる人の波を前に阿部さん達は思う。
「ありがとうございました! あ、はいお預かりします」
 お守りや絵馬、お札を買い求める客で授与所はごった返している。中で忙しなく動き回るに対し、阿部さん達は至っていつも通り、おみくじの守をしていた。
「あ、べ、さ、ん、達! 会計手伝って!」
「ええー? 僕たち基本的におみくじ担当なんだけど」
「持ってるそろばんは何なの! 適材適所!」
 とは言いつつ、は手を止めない。少なくなったお守りを補充しお札を渡す。てきぱきと動いている。お守りを買い求める客の対応をしながらお祓いの申込書を差し出し、おつりを返しつつ道案内をする。
 それをのんびり、やや後ろから眺めつつ阿部さん達はおみくじの筒を振る。
「僕たち居なくても、なんとかなるんだよねぇ」


彼のこと

 ふわり、とまるで水中を漂うかのように金魚たちが空を滑る。赤、金、黒の三匹がじゃれるように交差しながら行く先は、境内にある池の縁だった。
 大きな石がぐるりと池を囲んでいる。その一角に白い影。月明かりを受けて、ぼうと浮かび上がっている。
、マタネテル」
「イケデネチャウナンテ、ツカレテルンダネ」
「オナカガスイテイルンダロウネ」
 は池の水にに半身を浸け、上半身を淵の石に預けている。月光に照らされて尚、青白い顔だった。風に吹かれ、池の水面がひたと彼に打ち寄せる。水を吸って色を濃くした狩衣が肌に重く張り付く。
「ボクラガイルノニ、オキナイネ」
「ソウダネ」
「イタズラスル?」
 頭の近くを漂いながら三匹がどうしたものかと尾を揺らしていたが、ふと水音。気怠げに上げられた腕が、金魚たちを煩わしいと祓う。振られた腕に当たらないように三匹は四散する。水面に落ちた雫がぱしゃりと音を立て、が瞼を押し上げる。
「オキタ」
ガオキタヨ」
「マダイキテタネ」
「うるさいよ……君たち。ただでさえ、頭に響く声なのに」
 は濡れた手で前髪をかきあげ空を仰いだ。黒い空の中、月だけが明るい。
ガオキナイカラネ」
「オコシテアゲヨウトシタンダヨ」
「静かに寝かせてよ」
「ドウセキヤスメデショ」
「……言うじゃん、金魚」
 くすりとは薄笑みを浮かべる。白い唇から紡がれる先ほどからの言葉はほぼ吐息混じりだった。
 酷く疲労しており、喋ることでさえ苦痛というのがみてとれる。金魚たちは我存ぜぬという様で、飽きずにの周りを飛び回る。
「オナカヘッテルンデショ」
「まあ、ね」
 目を閉じると、目元に睫の影が落ちる。ふ、と浅い息を吐いて会話を断ち切ろうとしたが、そこまで金魚たちは優しくはなかった。
「タベチャエバイイノニネ」
「ソウソウ」
「ユエダッテ、イマ ジュンビシテルンダシ」
 頭を付き合わせて笑う声は、今のにとって不快の何物でもなかった。くすくす、と耳障りな高音が耳を嬲る。
「うるさい」
 ばしゃりと水をかける。すいと躱されてしまうが、金魚たちはもうに近寄ろうとはしなかった。距離を置いて、ふわふわと漂う。

「デモ、タベナイトキエチャウヨ」
「知ってる」
ノツクルオカシ、タベラレナクナルノハサビシイヨ?」
「嵐昼に、作ってもらえ」
「ホドホドニシナヨ」
「うる、さい」
 重い腕を引き上げ、もう一度水をかける。今度こそ、金魚たちはどこかへ泳いでいった。

「わかって、るよ」
 身体が重い。倦怠感、疲労感。一通りの身体的に不快なものが一気に襲いかかっているような具合だ。
「でも、やだよ」
 空腹感が頭を支配する。食べたい。食べたい。腹を満たしたい。なんでもいい。いや、出来るならば美味な物を。
「食べたくないよおれは」
 本能の欲求を見なかったことに。嵐中の作るご飯で腹を満たして紛らわす。けれどいつも慢性的に飢えているのだ。
 "食事"をしなければ妖は生きていけない。けれど彼はそれを頑なに拒否をする。
「重いよ……」
 人の記憶なんて。
 もうあんな思いなんてしたくないんだ、と空へ囁く前にの意識は闇へ落ちた。このまま"食事"をしなければ先が短いことなど、わかりきっていた事だった。


up11/09/20
手探り状態。