赤中の青 1

 奥州から一人捕虜が捕まった。噂によると、独眼竜の血の繋がらない兄弟らしい、とのこと。
 そんな噂が武田軍の城に広まっていた。けれど誰に聞いても実際見たことはないらしく、信憑性に欠けるなあと佐助が頭を掻きながら呟いていたのを、幸村は内心胸を躍らせながら聞いていた。
 なんと言ってもあの政宗の――血は繋がっていないのだが――兄弟なのだ! 食いつかない方がおかしい。
 ――きっと政宗殿みたくお強いのであろう……。
 ほんわかと想像に浸っていると、手進んでないよ! と隣に立つ佐助から一喝された。
 その噂の人物に会いに行くためには、まずは目の前の仕事を片付けなければいけなかった。

「終わったでござるうぅぅ!!」
 ばーん、と筆やらを放り投げるを通り越しで吹っ飛ばす勢いで幸村が勢いよく諸手を挙げた。
「あーはいはい。ちょっと待ってなさいね、旦那。今確かめるから」
 なんで忍の俺様が……と佐助は呟きながら、それでも巻物の巻数を確かめ、紙の枚数を数える。
「よし、全部丁度。旦那、い……」
 いよ。そう佐助が言い終わる前に、幸村は襖をすっぱーんと勢いよく開け部屋から飛び出していた。
 もちろんその行動には絶句するしかない佐助だった。

 幸村は、一人地下牢への階段を下りていた。途中で追いついてきた佐助に、地下牢は寒いからと言って羽織を渡された。それは着ず、脇に抱えて狭い階段をひたすらに下りている。
 ようやく階段が終わり、土の地面が露わになっている床に立つと、確かにひやりとした空気があたりを占領していた。
 その場にいた見張り達は、幸村の姿を見るが否やびしりと姿勢を改め手にしていた槍の石突きをカッ! と地面に打ち付けた。その音が嫌に響いて、幸村は小さく苦笑した。
 今この地下牢に囚われている者は一人しかいないはずだった。その一人を捜し、幸村は歩き始める。

 そう歩きもせずに目的の場所はすぐに見つかった。牢の前に二人、見張りの兵がいたからだ。
 その二人を目配せで退けさせ、すれ違いざまに鍵を受け取ると牢の前に立った。

 木製の格子の奥に、手枷足枷を嵌められ部屋の隅にうずくまっている男が居た。数本の蝋燭が部屋を照らしているが、男の着ている着物は見るからに所々が赤く染まっている。
 吐く息が白くはならないが、それでも十分寒い部屋なのだが傍目に見ても薄着で、小さく震えているのが分かる。檻の前に立った幸村には、一瞥しただけですぐに視線を戻してしまう。
 それが少しだけ面白くなくて、幸村は手にしていた鍵を鍵穴に差し込んでぐるりと回した。金属の擦れる嫌な音が響いて、檻の一部を引けば人一人がようやく通れるほどの空間が出来る。そこに身を滑らせて檻の中へ入った。

 は、先ほどから自分を興味ありげに見てくる視線がうざったいと思っていた。拷問をするならさっさとやってくれればいいのに。殺すならひと思いに殺して欲しかった。自分の身に対する様々なことが決まりかねているのかずっと放置されていたが、心底さっさとして欲しい。
 ようやくやって来た男は、自分がどう処分されるのかを告げに来た用ではなかった。そうであればあんな着流しで来るはずがないからだ。
 しかし見張りの兵が何も言わずに消えたのを見て、相当力も実績もある者だということは分かった。
 ちらりと見ただけではあまり分からなかったが、それでも十分、腕の立つ武人。自分の主人と同等ぐらいの。

 対して広くもない部屋は、数歩歩いてしまえばもう壁が目の前に迫っていた。自分の手足を引き寄せ、寒さに耐えている男の側に幸村はひょいとしゃがみ込んだ。
「寒くはないのか?」
 と幸村が尋ねるが、は無言で何の反応も返さない。
「寒いだろう。某も、寒い」
 そう言って自分の腕をさすってみせる。小さな子供にするように、姿勢を低くして無理矢理視線を合わせると、やはりふいとすぐに反らされる。
「る、せ」
 小さく呟かれた上、あまりなってない口調だったが、それでも反応を返したことに幸村は嬉しくなった。
 口の端が切れて血が流れた跡がある口元をぐいと器用に手枷の嵌められた手で拭い、ぎっとは不審者に鋭く睨み付けた。
 しかしその睨みは効果があったとは言い難かった。口元に優しい笑みを浮かべ、幸村はの頭に手を伸ばした。
「政宗殿と、そういう気の強いところはそっくりでござるな」
 幸村が伸ばした手はの頭を撫でたかったのだが、ずりっと姿勢を変えられた上手で拒まれてしまう。
 その様子を見て、まるで警戒心の強い手負いの猫のようだと幸村は感じた。そうなれば、手懐けてみたいと思うのが幸村だった。

 それきり、暇があれば幸村は地下牢へ足を運んだ。お互いの名前を知ったのは幸村が顔を出すようになって二桁になろうと言うときだった。
 は相手があの真田幸村と言うことに酷く驚いていた。いつも政宗から話は聞いていたが、実際に姿を見たことはなかった。ただ『赤い』と言われていたが、戦衣装ではないため分からなかったのが実際の所だ。
 ほとんど毎日飽きもせずにやってくる幸村に、は当初の頃よりかは警戒心を解いた。しかしまだつんけんした態度は変わらない。


 今日もまた幸村は地下牢への階段を下りていた。手には佐助が握ってくれた握り飯を包んだ笹の葉がある。
 この所幸村は一つ、悩み事を抱えていた。それは他の者――佐助や親方様のような――にとってはどうでもいいことかもしれなかったが、彼にとっては重要なことだった。
 が食物を口にしようとしないのだ。
 もうあの地下牢に入れられてから随分と経つが、水しか口にせず、見に行く度に細くなっていくのが悲しかった。
 習慣化した面会に、もう見張りの兵は何も言わず鍵を渡し場所を空けてくれる。今日もは、部屋の隅で膝を抱えてうずくまっていた。
殿」
 そう幸村が名前を呼ぶと、は顔を上げる。また来たのか、と小さく眉をひそめ前髪を掻き上げた。
「お前も暇な奴だな……」
殿を放っておけないでござるよ」
 苦笑してに近づく。すると居心地が悪そうに身じろぎをするが、逃げようとはしない。

 見ているこちらも笑顔になってしまいそうな明るい笑顔で、幸村は笹の包みを差し出した。
「佐助が握ってくれたでござるよ!」
 目の前に突きつけられたそれをはまじまじと見て、そして幸村を見た。
「……で?」

 予想外の反応に、幸村は頭を捻った。反応の意味が分からないのだ。
「え? いや、これは……殿に食べてもらおうと」
「そう、ありがと。でもいらない」
 すっぱりと斬り捨てるを見て、幸村はいっそう頭を捻った。
殿」
 名前だけを呼べば、何? と見上げてくる。
「腹、空いたでござろう?」
「そうだな」
「では、これを……」
「んとな、幸村」
 そこで一旦言葉を切って、は笹の包みに入った握り飯を持って立ちつくす幸村を改めて見た。

 正直、これがほんとにあの話にあった幸村かと疑っていた。なにより捕虜に対するこの対応。
 拷問らしい拷問も、一つもなかった。あったのは、最初に酷く長い時間を掛けて本当に奥州の者か、等々質問攻めにあった程度。
 敵国に捕まった以上は口を固く閉ざし、死んだ方がましだと思えるような拷問を受ける覚悟もあったというのに。少々拍子抜けしたということは口には出せない。

 自分を奥州に帰す気があるんだろうか、無いんだろうか。
 有るにせよ無いにせよ、施しを受ける気はさらさら無い。空腹なんて慣れている。閉じこめられるのも、慣れている。
 ――けれどこうしてやってくる人物は、慣れない。

「なんで、こんな事すんの?」
 前々から思っていたことを、ついに口にした。
「俺捕虜だよね。やることやらないと、なんでこんな所に入れられてるのか、その理由が分からなくなる。
 今でも分からなくなってる。俺、此処に必要?」

 思っていたことを真っ直ぐぶつけていた。もう少し薄紙にくるもうかと思っていたが、口からはするすると言葉が紡がれる。
「だったら帰して欲しい、ってのが俺の希望。家出したわけじゃないから。武田に入る気はこれっぽちもないから」
 手を戒める枷が鬱陶しい。これが無かったら見張りの二人や三人殴り倒していけるのに。
 これがなかったらさっさと奥州に戻れるのに。
 これがなかったら。
 …………。

 これがなかったら、目の前の泣きそうな顔してる頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてやるのに。


up08/12/13  加筆修正 08/04/22