熱で朦朧とする意識がひとつの足音を拾い上げる。額に乗せられた、湿る手ぬぐいを落とさぬように気を遣りながら視線を動かすと小十郎の足が見えた。
「小十、郎」
「……おう」
嗄れた声がぽつりと名前を呼び、小十郎は傍に膝をつく。彼の視界をさえぎる額の手ぬぐいを取り、持って来た桶に溜めた水に浸す。
は軽くなった瞼をゆっくりを瞬かせ小十郎を見上げた。濃紺の着流しを締める帯にはよくよく見覚えがあり、思えば自分が贈った物だった。使ってくれて嬉しいと思い、僅かに口元が緩む。
頭上で聞こえる水音が火照る耳にさえ心地よく感じる。
小十郎は手ぬぐいを絞り、一先ずそれは桶の淵に引っかけておき、水に触れて幾らか冷えた手をの額へ乗せる。
「まだ、下がらねぇな」
「ずっと熱いと、熱くないみたいに思えてきて、変な感じがする」
へらりと赤い顔でが笑う。しかしその表情はすぐに引っ込められる。笑い話をするときのようなの声色とは反対に、小十郎の眉間には皺が刻まれたからだ。
それを見てははにかみも取り繕った笑みも消し、寂しげに眉を下げた。
もう随分とは病床に伏せっていた。始めは単なる風邪と思っていたが熱が収まらず。政宗はあちら、こちらと医者を呼びを診させたが結局原因を突き止めることは出来なかった。ことごとく医者に匙を投げられただったが、当の本人はうちひしがれるというわけでもなく、「そっか」と呟き、疲れた笑みを見せた。
熱はじわりじわりとの体力を奪い、ろくに食事も喉を通らなくなる。今では重湯をすするのが精一杯だった。
やがて一日のほとんどを浅い眠りで過ごすようになる。布団から動けないの代わりに女中が身の回りの世話をしているが、時折政務の合間をぬっては政宗が、鍛錬の前に成実が、彼らの合間に小十郎が顔を出す。
それぞれがそれぞれの思いを抱えてやってくるが、は眠っており来訪に気付かない場合が多かった。けれど意識が在る場合は、ぽつりぽつりと会話を交わしていくのだ。
「夢を」
瞼を下ろしたがゆっくりと言葉を紡いでいく。小十郎は桶の淵にかけたままだった手ぬぐいを、の前髪をそっとかき分けた後で額に乗せる。
「夢を見たよ」
呼吸は浅い。あまり長く息は続かない。
「俺と、政宗と、小十郎とで、いつだったか戦場、駆けた時の事。どこだったっけ……。確か、成実がヘマ、して。怪我して、俺と小十郎とで、後始末したよ、なあ」
閉じられた瞼がひくりと動く。視たという夢を思い出しているのだろう。
「そんなこともあったな」
相槌をいれながら乱れた掛け布団を直す。
実際には随分と肝の冷える思いをしたものだったが、体調を崩してから戦場に立てていない彼にとってはそんな記憶でさえ美化されてしまっているのだろう。
「すごく、懐かしくて」
部屋の隅へ避けてしまおうと桶にかけた手が止まる。
懐かしくて、と呟くの表情に小十郎は動けなくなった。ふ、と口元に浮かべるその笑みの形が、戦場で見届けたもの達が同じようにその笑みをしていた。ある者は死に際にああ、と一つ嘆息を吐きながらも笑みを浮かべて死んでいった。その顔と同じものだ。
自分は医者ではなく、知と武をもって敵を退け国を支えることしかできないのだ。今が苦しむ原因を取り除く事はできない。拳を作った手がぎりりと握りこまれる。
「」
自分の主の失態を叱り飛ばす前触れのように、感情を押し殺した声だった。その変化にはおやとうっすら瞼を押し上げた。
「病は気からというのを知っているだろう。当人のお前がそんな弱気じゃ治るものも治らねぇ」
眉間に皺を寄せ、険しい表情の小十郎がぼんやり霞む視界に写る。口元が歪んでいた。
吐息混じりの笑い声がからもれる。放り出された腕がゆっくりと上がり小十郎に伸ばされた。本当は胸に、更に言うならその歪んだ口元にやりたかったが、起き上がることが出来ないため力なく小十郎の腹に熱い手の甲を押し当てた。咎める言葉を茶化すように、とんとんと軽く叩く。
「そう言われても。ねえ」
再びへらりと笑う。濡れた手ぬぐいの下からのぞくの視線は他に何か言いたげに揺れていたが、小十郎は何も言わず、腹に押しつけられた熱い手をそっと下ろしてやった。
は自分の身体のことであるから、わかりきっていた。
小十郎はなんとはなくであったが"かもしれない"という不確定要素しか抱いていなかったが、それがここにきて確信へと変わってしまっていた。
今の医学ではこの病に名前を付けることも原因を突き詰めることも出来ず、ただ見守ることしかできずにいた。
はたり、とかち合った視線をそらすことが出来ずに、小十郎は僅かに細められたの目元を注視する。
病床に伏せってからというもの、事実を素直に受け取りたくないという思いから伏せる姿をまじまじと視たことがなかった。熱の所為で赤いが、頬はいくらか痩けてしまっていた。元々肉の薄い方であったが、今では頬骨がうっすらと浮いて見える。
改めて確認してしまうと事実が重く胸に沈む。小十郎は一層表情を険しくし、はそれを見て、ごめんと零すだけだった。
「入るぞ」
声が聞こえたかと思うとこちらの反応を待たずに政宗が襖を開け放った。
「政宗様」
「珍しく起きてるじゃねぇか、」
「ん、起きてる」
政宗は小十郎の隣にどっかと腰を下ろした。胡座をかく膝に肘をつき、隣の小十郎を見てにやりと笑う。
「小十郎に説教でもされてたか?」
「ご冗談を、政宗様」
苦笑する小十郎をいつも通りの余裕に満ちた視線で流す。政宗が部屋に入ってきたときからずっと目で追っていたは、政宗があまり見ることのない優しい顔で微笑んだのを見た。頬杖にしていた腕をすいとに向け、無造作にかきあげられた前髪を整える。
「どうだ調子は」
「相変わらず、熱いんだか、熱くないんだか」
「Ah? 麻痺しちまってんのか」
熱さを確かめるため頬に触れれば、微熱を越えた熱さが伝わる。自分の体温よりも低い政宗の手はひやりとしており――政宗は平熱が人よりもいくらか低いため、尚更だ――その冷たさが心地よくは思わず瞼を下ろした。
「政宗。ごめんな」
主語も何も無く、言葉の前後関係も全く無い謝罪のみだったが、政宗には何に対して謝罪しているのか理解することが出来た。
「うるせえ」
言い返させないほどの強さでぴしゃりと言葉を吐いた。が目を瞑っている状態だからこそ、政宗は表情を歪めた。政宗も小十郎と同じく、何も出来ない自分を歯がゆく思っていた。
けれどそれを一番強く思っているのは本人だった。政宗に引き摺られるように元服から初陣を共にし、武を振るうことでようやく恩人への恩返しが出来ると思っていたのだ。
「ごめん」
政宗はの熱が移り人並みに暖まった手を頬から離し、言葉を重ねるの腕を取り上げる。海向こうの国で行われる誓いの口づけのように、けれど政宗は手のひらに口づけを落とす。
咎めるように小十郎が視線を向けるが、政宗は気にもかけず指の腹にも押し当てるだけの口づけをする。
いつの間にか瞼をあけていたがいくらか恥ずかしそうに笑っていた。
「どこのKnight?」
「Only you. と言えたら良いんだけどな」
「言ったら、蹴り飛ばす」
その身体でかよと政宗が笑い飛ばした。腹を抱える政宗に、隣に座る小十郎が咳払いをして諫める。
「不謹慎なことはお控え下され」
うるせぇな、と悪態を吐きつつもの腕を布団に下ろす。
政宗の唇が触れた場所が熱く感じて、は緩く手を握りこむ。海向こうの国への関心が強くその影響で英語を使いこなす政宗だったが、渡ってきた知識の所為でよく頬に口づけをされることは多かった。けれど手に、というのは初めてのことでありなにか意味があるのだろうかとふと思う。
もし布団から出ることがあれば、真っ先に聞いてやろうと考えて、いや、と思いとどまる。何事にも理由があって行動する政宗のことであるから、なにか意味があるに違いない。言葉にしてではなく行動にして伝えてきた意味を感じるべきだろう。
それから政宗は、時折小十郎を巻き込みつつ近状を話していった。近隣の情勢も語られたが、大方は城や城下での事が多かった。
庭の花が咲いたこと。成実が鍛錬をしていた時に何故か壁に大穴を開け、鬼庭殿にきつく叱られたこと。
城下街に新しい市が立ち、面白そうな品物を扱う店があったこと(これに関しては、城を抜け出して行ったとことが小十郎に露見してしまい小言を言われていた)。
ひとしきり喋ると、政宗は満足げにため息を吐いた。けれど彼はその後に言葉を続けようとして、噤んでしまった。
静かに視線を反らし、小十郎が空いた隙間を埋めるようにの額から温い手ぬぐいを取り桶の水に浸す。絞った手ぬぐいから滴る水の音が、静かになってしまった部屋に消えていく。
「いいんだよ」
いいんだよ政宗。飲み込んだ言葉を察し、は浅い呼吸で囁く。
「一緒に歩けて、よかった。背中を、預けてくれたのが、嬉しかった。鴉らしく、ねぐらで死ねて、良かった」
幸せだったよ俺は。十分すぎるほどに。
そう吐息混じりに吐き出したは、身体の不調などまるでないかのような笑みを浮かべ、瞼を閉じた。
up12/06/27
鴉は政宗が幼い頃彼につけた幼名のようなものです。(念のため
街で鴉の死体を見ないのは、彼らは巣で動けなくなり死ぬからという話を聞いて。
あとひっそり伊達主従再熱しましてですね。