京は、今日もどこか血腥い。
高杉の隠れ家の低い窓から、は頬杖をついて下界を見下ろしていた。
緑が多い。京の感想はそれに尽きる。しかしそれは夜の今ではまったく見えるはずもない。
天人に迎合した幕府は、非常に素早い行動でこの国を外の世界に合わせようと躍起になっている。その影響が無いわけではなかったが、それでもまだ『波』は小さなものだった。
風の噂によれば、江戸の方では天人が早くも我が物顔で町を歩き回っているらしい。その噂は、嫌でもの耳に入った。
月明かりが、ぼんやりとの見える世界を照らしている。
この風景も変わってしまうのだろうか。そう思うと、とても残念に思える。とても綺麗な風景なのに。
蝋燭一本の明かりがの横顔を月明かりよりかは強く照らしている。
かた、と微かな物音がしてはそちらを見た。のいる部屋の障子が開けられ、入ってきたのは高杉だった。いつものように煙管をくわえている。
高杉はそのままの側まで歩いていくと、懐から一枚の紙切れを取り出した。それを彼にに差し出す。
「仕事だ、」
その言葉に、は静かに高杉を見上げた。煙管から立ち上る紫煙がやや煙たい。差し出された紙を受け取り、それに視線を落とす。短く要件が書いてあった。
その文章を読み終わると、は窓の枠に手を掛けて立ち上がった。
「分かった。行ってくる」
少々面倒そうにしているが、言葉には迷いがない。ぴらりと紙を高杉に返し、彼の横を通り過ぎて部屋を出た。
は別の部屋で、今まで着ていた紺の着物を脱いだ。その代わりに身につけるのは、黒い着物。袴もつけると黒尽くめになってしまう。
様々な道具を身体のあちこちに装備した後着物と同じように黒い甲当てを付け、最後に脇差しほどの長さの刀を腰にさした。
そのままの姿で一度高杉の元へ戻る。先ほどまでがいたところに高杉が座っていた。紫煙を燻らせながら窓の外を見ている。
「こんな真っ暗の中、何見てたんだ?」
つい、と視線だけが動く。
「特には。ただぼんやり眺めてただけ」
小さく肩をすくめながら返すと、高杉は僅かに肩を揺らした。
「行ってくるよ」
ああ、とも言わずに、高杉は煙管を持っていた手を僅かに上げた。
仕事の内容は至極簡単なものだった。指示された者を殺してこい。時間制限も何もなく、只その目標がいる場所と特徴だけが知らされた。
時折、高杉はの下に仕事を持ってくる。直接依頼人が来ないことから、は高杉自身が仲介をしているのだろうか、と思っている。けれどそれを実際に聞いたことはなかった。聞いたところで「それがどうした?」と妖しい笑みを浮かべて返されるのがオチだ。
走る、走る。闇に紛れて、闇にとけ込んで走る。見知らぬ屋根の上を。塀の上を。
とんっと音がしてが着地する。丸めた背を伸ばし、建物を見上げれば指示があった場所。
建物の裏に周り、苦もなく塀を乗り越えた。黒くそびえる建物の壁に手をつき、一度上を見上げた。その後壁の凹凸に足をかけ、力を込めて跳ぶ。
上昇する早さが鈍る前に再び壁を蹴り、上を目指す。
僅かな時間で最上階まで登ったは、目聡く鍵のかかっていない窓を見つけそこから室内に入り込んだ。するりと音もなく現れた黒尽くめの人物に、その場に居合わせた人々の大半はぎょっとして身を強ばらせた。
しかし一握りの男達が腰の刀を抜き、室内にもかかわらず大きく振りかぶってに飛び込んできた。
ぎらり。の紺の瞳が危険な光を宿し、そして口元がつり上がる。
「探す手間が省けたらしい」
その視線の先には、ひょろりと背が高く禿頭の男。右小鼻の所にイボがある。――目標人物だ。
死角からの男の攻撃を身をひねることでかわすと、は両腕を振った。腕に付けた仕掛けが動き、前腕ほどの長さの短剣が掌に滑り込んでくる。それを握り込み、一歩踏み込むと同時に男の首と脇腹を同時に切り裂く。派手に血しぶきを上げながら床に崩れる男を背にして、は右手の短剣を逆手に持った。左手を振って血を払う。
一気に、部屋の温度が下がった。びくびくと痙攣し倒れている男よりも、その男をそんな惨状に陥らせたに視線が集まっている。
黒尽くめだが、そうではない顔と手は所々に血が散っており黒とも相まって肌の白さを際だたせているようだった。
長めの前髪から覗く紺の瞳がすっと動き、逃げようとしている目標人物を睨め付けた。その視線に気がつき、けれどそれでも逃げようとする男。
素早く前傾姿勢になり走る。屈強な男達の間を風のように走り抜け、目標人物を逃がそうと躍起になっている男の後ろに立つ。
後ろにいる、ということが理解される前には男の首を掻き斬っていた。大量の血が目標人物に降りかかる。それを彼は目を見開いて見ている。
はとっさに男を離し身を引いていた。がいたところに刀が振り下ろされるが、それは男の死体に刃が食い込むだけに留まる。
その飛び込んできた男は二つの短剣で腹部を深々と十字に捌かれた。
右手に短剣を持ったままこの部屋唯一の出入り口に手をつき、返り血の飛んだ顔では微笑んだ。
「逃げることは、許さない」
その表情とは反対に、口調は酷くドスがきいている。目標人物は床に崩れるように座り込むと、そのままずるずると壁際まで這いずっていった。
それを見た後先ほどとは違う笑みを浮かべると、はまだ部屋に残る男達を見た。
ざっと見、特にこれと言って手応えのありそうな奴はいないと判断すると、はすうと息を吸い込んだ。
最後の一人が崩れ落ちた。
血臭が酷い中、は血溜まりを避けて目標人物に近寄った。男は必死の形相でから距離を保とうとするが、それを壁が拒む。
「その腰にある立派なものは飾りかい」
蔑みの目で立派な拵えの大小を見る。しかし男は両手を床に付き、深々とに向かって頭を下げた。
「頼む! この通りだ、こ、殺さないでくれっ……!」
命乞いを始める男。冷ややかな視線で、はそれを見下ろしている。男は顔だけ上げるとを見た。
「な、何が悪かった? 言ってくれ、言ってくれれば直す! か、金か? それとも、ち、地位か?」
醜い命乞いを聞き流しながら、は両手に持っていた短剣を懐から取り出した布でくるみ、懐へしまう。その短剣の代わりに、腰の刀に手を伸ばした。
「止めてくれ! まだ死にたくないっ!!」
額を床に擦りつけ、小さく震えながら男は叫ぶ。
「……そうやって、生きたいと縋ってきた無実の者達をお前達はどのぐらい殺してきた?」
その言葉に、男はびくりと身体を震わせた。
「今その側に立っている気分はどうだ」
思わず嗤ってしまいそうだった。この目の前で床にへばりつく男を見て。
何か汚れたことに手を出せば、いつかきっと自分に返ってくる――そんな事も知らなかったのか、と。それは自身にも言えることだったが。
「そうしてこんな風に」
刀を抜く。右手で逆に持ち、左手を柄の頭に添える。未だ顔を上げない男の首に狙いを定め、振り下ろした。
骨の隙間に刃が入り込む感触。刃と肌の隙間から血が溢れていく。身体を足で押さえ引き抜くと、後から後から血は沸いてきた。
「殺される気分は? あの世があったら、じっくり考えてみろ」
その男の服で刀の血を拭い、鞘に収めた。
そうしては、来たときと同じように音も無く死体しかいない部屋から消えた。
高杉の隠れ家に戻り、終わったと告げる。それを、高杉は煙管をふかしながら聞いていた。
聞いているのか聞いていないのか分からない反応に、ははあと肩を落とした。
血が染み込んで乾き、赤黒くなった着物を見、そしての顔を見て高杉は口元をつり上げた。
「毎度思うんだがよぉ、よくこんな事やってられんなァ?」
「毎度思うんだけど、だったらなんで俺に仕事持ってくるかな」
「速い、綺麗」
「俺は写真か」
「――仕事終わりの、そのいろんなもンが混じった顔を見るのが俺は好きなんだよ」
しばらくのやりとりの後、高杉は低くややかすれた声で言い切った。その言葉には眉をひそめると、付き合ってられないと身を翻し割り当てられた部屋に戻っていってしまった。
その背中を見て、高杉は満足そうに目を細めていた。
今日もどこかで、誰かが誰かの手によって死んでいく。
up07/12/13 加筆修正 08/04/22