深夜近くになっても雨は弱く降り続けた。この分だと、明日の朝ぐらいは少しばかり涼しいかもしれない。
 高杉は自室でろうそくを二本灯し古い本を煙管片手に読んでいた。いつもならとうに帰ってきてもいいはずのが、まだ姿を現さないのだ。
 時間を制限させていたわけではないから、いつ帰ってこようと仕事さえこなしてくればそれで良かった。けれどなぜだか苛立つ。
 彼にはその苛立ちが分からない。いや、『苛立ち』という存在は分かるのだ。しかし、それが何故生まれるのかという理由が分からない。

 煙草盆に灰を落とす。すぐに新しい葉を入れようとはせず、煙管は盆に立てかけた。
 動作もどこか荒く本を閉じる。雨のため湿度の多い空気をその時改めて感じ、立ち上がった。窓へ近づくと、それが切り取る四角い風景を眺める。

 そう、あいつは昔から物わかりのいい奴だった。馬鹿みたいに明るいわけでもなく、かといって空気に熔けてしまうような存在感ではなく、大して意識せずともそこにいる、というのが分かった。けれどいつの頃からだったか、気がつけばいつも側にいた。
 天人との戦いの中では前線ではもちろん、裏のことに関してでも信頼でき頼りになる人物だった。
 再会した時には、その間確かに時間は経過していたのだろうかと疑ってしまうほどあの時のままだったことに驚いた。
 雪の中一人うずくまる影を見てだとすぐに分かったのは何故だろう。
 他に使いやすい者も居ただろうに、彼を側に置かせたのは、何故だろう。

 ばちゃり、と水の跳ねる派手な音がした。高杉がそちらに顔を向けると、全身から水を滴らせた黒い影――否、が立っていた。
 視線に気がついたのかゆっくりと彼は顔を上げると、顔に張り付く前髪を横へと分ける。その表情は暗い。
 歩調だけはいつも通りに高杉のいる窓へと近づく。
「終わったよ」
「ああ」
 素っ気なく高杉が返す。は一度視線を足下の水溜まりに落とし、そして高杉を見上げた。
「なあ、高杉」
 明るさが足りず彼の顔は暗く沈んでいるように見える。ろくに見えないが、それでも高杉はの姿を見下ろす。
「何だ」
「……いや、やっぱり、いい。着替えてくる」
 はふいと目を背け、自分の部屋の方へ歩いていく。その背中を高杉は家に遮られ見えなくなるまで見ていた。

 いつもより覇気のない声。どことなく自信なさげに紡がれる言葉。出向いた先で何かあったと言う事は歴然だった。
 ぽつり、と風にあおられた小さな雨粒が高杉の頬に当たる。それを指先で拭うと、雨戸を閉めた。


 濡れて張り付く着物を脱ぎ捨て、乾いた着物へ袖を通す。少しは不快感が無くなるかと思ったが、湿度が高いためそうでもなかった。
 頭を箪笥から引っ張り出した手ぬぐいで乱暴に拭く。吹き終わり水を含んだ手ぬぐいは黒い仕事服と同じ籠に放り込んだ。
 もう時刻も遅い。布団を出して寝てしまおうかと思うが、そうすればきっとあの声が夢に出てくるに違いないとは思う。
 この状態で一人で居ることはあんまりにも心許ない。無意識のうちにの足は高杉の部屋へと歩き出していた。

「た、かすぎ」
 うっすらと開いている襖の隙間から明かりが洩れているのを確認してから、襖越しに声を掛けた。すぐに返事は帰ってこない。もう寝てしまったかと部屋へ引き返そうとしたとき、入れと中から声がした。
 襖を開けるとゆらり、と二つのろうそくの灯が揺れた。の正面、足の低い机を挟んだ向こうに高杉が座っていた。彼の持つ煙管からは紫煙が立ち上っている。
「今、いいかな」
「ああ」
 襖を閉め、机の前に座る。暫く何も言い出せず、揺らめくろうそくの明かりとそれと同じように揺れる紫煙を目で追っていると煙管を下ろした高杉が小さく息を吐いた。

「今日は遅かったな」
 やっぱりそれだよな。は一人で納得する。
「ちょっと、な」
 言い辛そうに返すものの、高杉はじいっとを見て尚も口を開く。
「手強かったのか」
「いや、全然。楽だったよ」
「じゃあ、何でだ」
「それは――」
 そのあとが続かない。どう言えばいいのか。そのままを言えばいいのだろうが、あんな事を彼に話したくはない。
「それは、」
 言い直してみるがいい続きが浮かぶ訳でもなかった。ああでも、言わなきゃ。
「考え事。してたから」
「どんな」
 間を置かずに切り返してくる高杉に、今はそれを恨めしく思う。こんな時でなく、普通の会話の中だったら会話がそこそこに弾んだだろうに。

「どうして、俺が人を殺すのか」
 ぴくりと高杉の指先が動いた。はぐっと右手を握り込み、そして俯く。
「俺は、自分の意思でここにいる。ここに居るってことは誰かを殺すことだ。それに後悔も悔いもない。だけど……だけど、なんだろう、何で殺すんだろうって、思っちゃった、んだ」
 それを聞きながら高杉は煙管口元へ運ぶ。こんな事を考えていたのか。
「なんで殺すのかって事は、それはもちろん俺がそういう依頼を受けてるからであって、特に理由を考えたことは、なかった。昔は理由があった。天人を倒すため。殲滅するため。でも、今は。今は、そういう理由が、見つからない」
 自分を納得させるだけの、理由が。
 はそこでようやく瞼を上げる。右手の力を抜き、顔を上げて高杉の顔を見た。いつもの表情だ。
「理由がなけりゃ殺せない、って訳じゃない。でも、考えちまったんだ、高杉。なんで殺すのか、って」
 考えてしまった。
 あの時あの言葉を聞かなければ、考える事なんて無かったのに。そう、迷う事なんて無かったのだ。迷う、ことなど――


 自分を見上げてくるの顔は今にも泣き出しそうだった。あと一歩踏み出せば、絶対に涙が溢れる。
 縋るような、助けを求めているような。いや、そのどちらでもないのかもしれない。
「理由が欲しいのか」
 そう言えば、小さく頭を横に振る。再び俯くに、高杉はクッと喉の奥で笑った。
「理由が欲しいんだよ、お前は」


up08/04/02