どこまでも遙か、彼方へ


ありふれた幸福の

、そんなところで寝るんじゃない」
 夢と現の間をふらふらとしていたところを揺さぶられ、無理矢理意識が浮上させられる。抜けない眠気に半目を開けると、いつものように仏頂面の玄冬が視界に入った。
「寝るならベッドに行ってくれ」
 そう言うなり、彼は台所に入ってしまった。

 少なくとも自分より大きな背中を見送りつつ、は突っ伏していた机から身体を起こす。腕を持ち上げ伸びをすると、どこかの骨が小さく鳴った。
 ふわ、と欠伸を一つ。あんなことを言われてしまったが、ベッドへ行く気はない。そもそもまだ眠気のためふわふわとしている身体を動かす気にはならなかった。それに、この時間帯で玄冬が台所へ行くと言うことはもうじきお茶の時間だ。
 すると隣からくすりと笑う声が聞こえ、そちらに顔を向ける。頬杖を突いた黒鷹が口元を上げを見ていた。
「いやあ、。よく寝ていたね?」
 何故か嬉しそうに黒鷹は言う。その笑いはいつも見ているはずなのに、今回に限ってはにこにこ、というよりもにやにや、という表現が正しいかもしれない。
「寝言で私のことを呼んでいたのがすごーく気になっていてね」
 ぱちぱちと何度か瞬きをした後、は不思議そうに聞き返す。
「え、寝言言ってた?」
「そりゃあもうはっきりと!」
 何か夢でも見ていたのかい、と先ほどから変わらない変な笑顔を浮かべながら尋ねてくる黒鷹をじいと見る。
 黒鷹の言うとおり、は確かに夢を見ていた。いつもならばどんな内容の、とまでは覚えていない。きっとそのぐらいどうでもいい、内容に意味のない夢なのだろう。けれど今回は、はっきりと覚えている。
「……あんまり衝撃的だったから。あり得なくて」
「ほお?」
 黒鷹は興味津々と言ったように僅かに身を乗り出す。

 そこで玄冬が茶器の乗った盆を持ってふたりの元へやってきた。きちんと三人分だ。漂う良い香りがの頬を緩ませる。小皿に盛られた焼き菓子があるあたりが料理好きの玄冬らしい。
「手伝うよ」
 椅子を引いて立ち上がり、は盆からテーブルへと茶器を移し始める。
「助かる」
 玄冬は短く礼を言う。すぐに作業は終わり、再び椅子へと腰を下ろし玄冬がカップへと赤褐色のお茶を注ぐのを待つ。

「で、。どんな内容だったんだい」
 玄冬の登場で話が中断していたが、どうしても気になる黒鷹がの肩をつつく。 その手を払いながらはちらりと玄冬を見やる。
 もし夢のような奇跡が起こったなら、彼はどう反応するかを考えた。……きっと盛大に気持ち悪がるかもしれないな、と思い苦笑してしまう。いやしかしそれも仕方ないだろう。
「こらこら、ひとりで何苦笑いしてるんだ」
「いや……。お前が喜んで生野菜食べてたんだよ、夢で」
 その言葉に黒鷹よりも、ようやく椅子に座った玄冬が先に反応した。
「こいつが? 野菜を? ……いや、それならそれでありがたいが……その、なんだ。気持ち悪いな」
 が想像していたものと似た反応に小さく吹き出した。隣の黒鷹と言えば呆気としていたのもつかの間、野菜に対しての嫌悪感を隠そうともしない。玄冬から気持ち悪いと言われた事についての反応がないところを見ると、相当嫌な事が伺える。

 お茶の注がれたカップを引き寄せながらはなあ、と玄冬に頷く。
「叫びたくもなるだろ、玄冬」
「なるな。何があったと胸ぐら掴んで揺さぶりたくもなる」
 が声を上げて笑う隣で黒鷹は静かにお茶を飲み、大きなため息をつく。
「全く君たちは……。そんなことが起こるはずないじゃないか!」
「あはははは開き直るなこの馬鹿鷹」
 笑いながらが鋭い突っ込みを放つ。恒例化した一連の流れに玄冬はひっそりと苦笑した。

2009-09-25

ありふれた幸福。ありふれた日常。失ってから気づくこと。

神澤 蒼