帰還

 ばさり、と洗濯物がはためいている。風に吹き飛ばされないよう洗濯物を止めながら、は昨日と変わらない潮の香りを胸一杯に吸い込んだ。

 洗濯物を干し終わってしまうと、少しばかり暇が出来る。縁側に腰を下ろしてふうと一息ついた。ふわりと漂ってくる蟲を手で払いのけ、今日も青い海と干し立ての洗濯物が織り成す風景を満足げに見ていた。
 今日は機嫌がいい。
 いや、大体いつも機嫌はいいのだが、今日は殊更だった。
 少し前にギンコから連絡があったのだ。近いうちに寄れる、と。化野によれば、手紙にかかれていた現在地から予測すると今日ぐらいだろう、と目星を付けそれをに伝えていたのだ。
 今か今かとギンコを待ちわびていたにとっては、何度も聞き返してしまうほど嬉しいことで。毎日の家事をこなしながらも、鼻歌でも披露してしまいそうなほどの上機嫌だ。

 縁側に座り、足をぶらつかせた。
 がギンコに拾われ化野宅に居候するようになってから、もうずいぶんと月日が経っている。その間に化野には少しばかり医学を教えて貰い、村の人々からは優しさと生きる知恵を教えて貰った。
 自分と親だけの狭い世界で生きていたにとって、それらはとても新鮮で飽きる日など一日たりとも無い。それはもちろん、今でも。

 様々な体験をしている間に、の胸の中に一つの思いが生まれていた。
 ――蟲師になりたい。
 自分には蟲が見える。けれどそれだけで、と言うわけではなく、誰かの役に立つことをしたい。
 このまま化野に医学を教えて貰うのも良かったが、折角見えるのだからそれを役立てたかった。
 そんな思いは、日々強まるばかりだった。

 だからギンコが今度来た時には、話を持ちかけようと決心している。


「まだ、かなぁ」
 どのぐらいに着くのだろうか? もっと詳しい時間が分かったら、しっかりと準備が出来るというのに。
 はあ、と期待と不満の混じったため息を一つつく。

 ふわ、との頬に触れたのは風でも無く、蟲だった。
「……?」
 その蟲はどこにでもいる(らしい)ものだったが、の頬を撫でた後開け放たれた硝子戸から家の中にふよふよと漂っていく。
 無意識には立ち上がっていた。待って。小さく呟き下駄を脱ぐ。今はきちんと揃えているのももどかしい。

 あれ、なんで俺はあいつを追ってるんだろう?
 なんでと聞かれたら。――そう、呼ばれている、としか言いようがない。あの蟲に。

 漂う蟲がやって来たのは玄関。その先に進もうとするため、は慌てて草履に足を突っ込んだ。
 ねえきみ、どこにいくの? あんまり遠出すると化野せんせが怒っちゃうんだけど。
 その言葉は口には出さない。心の中で、そっと目の前の蟲に語りかける。
 一度ふわりと身を上昇させた後、すうとその蟲は姿を消した。
「あ、」
 思わず手を伸ばし掴んでみたが、遅かったらしく何も手の上には残らない。
「消えちゃった……」
 面白い子だったのに。妙に名残惜しく、最後に消えた空間を見るため顔を上げる。
 海とは反対の方向、青々と茂る山々の緑。比較的近い山の裾近くに、不意に白い点がが見えた。
「――あ」
 あれは。あれは!

「あっだしのせんせぇ! ギンコ来た、ギンコ来たよー!!」


up08/01/01  加筆修正 08/04/22