夜明けの後幾らかは夜の冷たい空気が続くが、すぐに熱を孕む。は額を滑る汗の不快感で目を覚ました。
 ウルフウッドはバイクの側でしゃがみ込んでいるのが見えた。低く響くエンジン音。それに異常はないように思える。砂漠という過酷なフィールドを走らせているのだから、軽くメンテナンスでもしているのだろうか。
 は立ち上がると固まった筋肉を解すようにゆっくりと伸びをする。眠気覚ましにと頭を振れば、砂がぱらぱらと落ちた。

 バイクのエンジンを切るウルフウッドは肩を回しながらを見た。
「おはようさん。なんか食うか?」
「食わしてくれるならな」
「なんや可愛くないやっちゃのう!」
「可愛くなくて、結構」
 ふん、とはそっぽを向いて答える。が、ウルフウッドは自身の荷物をあさり始めた。あったあったと呟きながら引っ張り出されたのは、丁寧に油紙で包まれた固まりだった。それを開いて中身を取ると、無造作にへと放り投げた。
「それやったらええで」
 口の端を上げて笑う顔が、嫌に眩しい。難なくキャッチした物は干し肉だった。表面に黒胡椒や香辛料がすり込まれている。
「……ありが、とう」
 俯きながら小さく礼を言うと、素直やないなあ、とどこか上機嫌に返ってきた。


「ここでええんか?」
 一晩過ごした場所から一番近い街へとふたりは移っていた。はここでいいと言うが、しかしウルフウッドは此処に留まることはなく先に進むという。
「バイクは疲れるんだよ」
 不機嫌にそう返す。慣れない物ほど嫌な物はないと思う。ずっと続く揺れと振動に何度胃の中の物が迫り上がってきたことか。
「そりゃあ悪かったな。……まー、達者でな」
 上げていたサングラスを戻し、一度バイクのエンジンを大きくふかすと再びウルフウッドは砂漠を走っていった。

 もうもうと派手に砂煙を上げて走るバイクの黒い影が、どんどんと小さくなっていくのを見送る。は自らのパニッシャーを担ぎ上げた。
 早くマスターの所に戻らなければ。何故か気持ちが急いていた。は足早に街と街を行き交うバスの停留所へと向かった。
 今までずっとGUNG−HO−GUNGについての事を何も掴めていない。それなのに催促のひとつもないのだ。何かおかしいと、は感じている。


 なるべく早くと自らに言い聞かせていたが、結局マスターの元へ戻ることが出来たのは随分と日にちが経っていた。
 隠れ家としている家の前に立っていたが、どうも気配がない。――誰もいないのだ。普段ならば絶対にあの人だけでもいるはずなのに。
 はノックも忘れ、ドアを乱暴に開けた。
 途端、鼻を掠める鉄の匂い。否、血の臭い。その臭いの強くなる方へはふらりと足を踏み出した。
 何故此処で流血沙汰が? ありえない。自らのテリトリーは汚さない人なのに。
 階段を駆け上る。一番奥の部屋から、血の臭いは濃く漂ってくる。背筋が凍りついた。あの部屋は――

 廊下突き当たりのドアは完全に閉まっていなかった。軽く押すと金具が擦れる高い音がしてドアは開く。
 部屋の真ん中に、赤い水溜まり。それもまだ生乾きの。普通の人間ならば明らかに致死量以上の量が流れていた。
「マスター?」
 いつも深々と腰掛けていた黒いソファーが倒されている。板張りの床には見たことのない足跡。乱れた室内。

 なんだ、なんなんだこれは。これは、一体誰の血だ?

 頭の一部がすうっと冷たく冷静になっていく。誰の血かなんて自問しても、答えは分かっていた。分かりたくなかった。でもなんで。だれが。なんで?

 不意に背後で何者かの気配がする。瞬時にパニッシャーを引き寄せ戒めを解こうとするが、指先が引きつる。
「っ!?」
 パニッシャーは諦めほぼ反射で上着の中からハンドガンを抜こうとするが、やはり指先が引きつり――いや、腕や足が痺れて上手く動かすことが出来ない。
 攻撃態勢に入ることが出来ない間に、気配は確実に増えていった。前にふたつ、後ろによっつ。気配は読める。なのに、動けない。

「おいおい、こンなのがここの一番? ざけンなよ」
 後ろから笑い声を含んだ声が響く。
「な……にを」
 ククク、と低い笑い声。今度は前方から。
「簡単な毒が効くとは」
 は自らの失態にかあっと頭に血が上った。力の限りパニッシャーとを繋ぐ紐を握り締める。けれど力を込めているつもりなのに、全く力が入っていない。

 背後から影がひとつ飛び出した。引き摺り倒したパニッシャーで初撃を防ぐ。が、その後をどうするかなど考えていない。
 早く毒が抜けることを祈りつつ、精一杯身体を捻る。がくり、と脚から力が抜けるのが他人事のように分かった。目の前に迫り来る刃。手を振りかざす。
 ――暗転。






 が目を覚ましたとき、視界は闇に覆われていた。それが目隠しされているわけでもなく、ただ夜が来ているのだと言うことを理解するのに幾らかの時間がかかった。
 床に俯せで倒れているようだった。身体を起こすと、左掌にじくりとした痛みが走る。深い傷でもなく、既に傷口は塞がっている。痺れは少しも残っていないのに一先ず安堵した。

 闇に慣れた目で辺りを見回した。此処へ来たときとなんら変わりはなかったが、血溜まりは乾き黒い染みとなって床に広がっている。
 頬が微かに引き攣るのを感じ手で擦ると、乾いた血がぱりぱりと剥がれ落ちた。頬に傷はない。血溜まりに突っ伏してしまったのだろうと思うと、なんとも言えず奥歯を噛み締めた。
 膝を突いて立ち上がる。そしてあるはずの物がないことに、の血の気がさっと引いた。
 無いのだ。自身が持って来たパニッシャーが。
「……な、ん」
 だと?

 確かに持ってこの部屋に入った。そして記憶が途切れる寸前までこの手にパニッシャーとを繋ぐ紐の感覚があったのを覚えている。
 無意識のうちに上着の上からハンドガンのホルダーに触れた。ハンドガンの感触は確かにある。
 瞬きも忘れは床を見つめていた。部屋をいくら見回してもあの十字が見あたらない。
 何故だ。何故。
 そう簡単に持ち出せるような代物ではない。金銭価値があるとは――扱えない武器に価値など無いだろう――思えなかった。

 そして一番初めに聞いた男の声が脳裏にフラッシュバックする。
 ――おいおい、こンなのがここの一番? ざけンなよ――
 単なる強盗ではない。"ミカエルの眼"であることを知っている言動。床の血溜まり。マスターの不在。

「……っは、はは」
 乾いた笑いが口を突いて出た。拳を作った手がぎりりと握り締められる。
 彼らはミカエルの眼本部からの使者であり、そして、
「パニッシャーを持っている資格の、剥奪?」
 謂わばテストのようなものだったのだろうか。全て推測でしかないが、きっとそうなのだろう。ここに居たはずのマスターは消滅した。乾いた血溜まりを残して。


 絶望が胸に広がっていた。今まで味わったことのない、深い絶望と喪失感。目の前が暗くなる。
 がくり、と脚から力が抜け床に膝を突いた。きつく握り締めていた手を解き、頭を抱える。
「マス、ター」
 絞り出したような声は、自身が驚くほど弱々しく、震えていた。

 ああ、俺はどうすればいい?


up2009/08/21