気晴らしの一口を

 終わりません。
 何がって? そりゃあもちろん、書類処理が。

 太陽はもう少し前に沈んだ。けれどここ応接室はカーテンを引いて電気を付けて、さながら職員室のような雰囲気で作業が続いている。だけど部屋には俺と委員長の二人きり、これっぽっちも会話がない。
 草壁さんは数時間前に風紀委員数名を引き連れ見回りに出たっきり帰ってこない。逃げたとは思えない、が……。
 単調な作業に飽きが来て、それでも手を止めることは許されず(もれなくトンファーが襲いかかってくる)気分転換を図るため紅茶を淹れた。
 俺の正面でもくもくと万年筆を滑らせるこの委員長、かなり舌が肥えているらしくこういうティーカップ一杯にももんのすごく五月蠅い。最初は「ぬるい」とか、「熱すぎ」とか、「蒸らしすぎ」とか、散々言われましたとも! それに茶葉にも五月蠅い。どうやらダージリンかオレンジペコのストレートが好みらしい。前に安物買ってきたら、もれなく噛み殺されそうになりました。はい。
 ポットから適度な量を(そうそう、量にもかなり文句付けられた)ソーサーに乗せたカップに注ぎ、それを持って委員長のもとへ。

「どうぞ」
 さり気なく視界にはいるような場所に置くと、ちらりとそれを見る。万年筆を置いたかと思うと、カップに手を伸ばし一口飲む。カップを口から離し、ちいさく息を吐いた。ソーサーへカップを戻したところを見ると、どうやら合格点らしい。毎回毎回、冷や冷やする一瞬だったりする。
 最近は慣れてきたと思っているけれども、調子に乗りすぎたからかこの前不合格を受けて大変な目にあった。

 自分の分のカップには角砂糖一つ、牛乳を入れてミルクティーに。一気に半分ほどを飲んでしまうと、すこしは気分が落ち着いたかもしれない。
 定位置に戻り、再び書類に向かい電卓を打つ。



 しばらくして。
「合わねぇっ……!!」
 俺は思わず机に突っ伏した。金額が! 金額が合いません!
 何度も何度も数値を電卓に打ち込んだけれども、その度書類に書かれた合計金額と一致しない。
 はっきりいって死ねる。

「何やってるの」
 不意に声を掛けられ、机に額を付けていた俺は顔を上げた。委員長は自身の仕事が終わったのか、椅子の背もたれに身体を預けてらっしゃる。
「合計金額が一致しません」
 ほら、と紙切れ一枚と電卓を渡してみる。紙だけを俺の手から取り上げると、じいっとその金額表を見つめる委員長。
 するとぺいっと紙を放り投げられた。
「向こうのミス。後で絞っておかないと。……、このぐらいのことも気づけないの?」
 挑戦的な台詞に、俺を小馬鹿にしたような笑み。いやいや、ここで乗ったら向こうの思うつぼだ。きっと噛み殺される。
「以後注意します」

 幸い他の書類は終わっていた。俺は立ち上がって委員長が放り投げた紙を拾い上げ自分の机に戻す。委員長の空のカップと自分のカップを持って流しに向かう。
「コーヒーか紅茶どちらがいいですか」
「コーヒー」
 もちろん、俺の背後でじいっと俺を見てくる委員長はインスタントじゃ満足してくださらない。さすがに飲む度に豆を挽くのは手間がかかって出せる時間も遅くなると訴えたらパックのレギュラーで許してくれた。のが、二ヶ月前。
 新しいカップを出す。それに袋を破って取り出したパックを被せ、湯を注ぐ。適量・適温ばっちり。
 自分には先ほどと同じ角砂糖一つのミルクティー。コーヒーの入ったカップを委員長の机に持っていく。すぐに一口飲む。ソーサーに戻す。良かった合格。

「ねぇ」
 自分の席に戻って一服していると、また声を掛けられる。委員長は机に両肘を付き、組んだ両手に顎を乗せて俺を見ている。
「何か」
「いつもそれだよね」
 それ、と言われ数秒何のことだか理解できなかったが、すぐに今俺の持っているカップの中身だと言うことに気がついた。
「好きなんで」
「たまにはストレートも飲んだら」
「いや、遠慮しときます」
「糖尿になっても知らないよ」
「大丈夫です、動いてるんで」
 そう言い終わってから、一口。
「飲めないの?」
「そんなこと、ないですよ」
「ふうん?」
 あ、なんかヤな予感がする。
 委員長が立ち上がる。少し遅れて俺も立ち上がる。応接室出入り口のドアへ走り寄り、ノブに手を掛けた――ところで捕まった。
 ノブを触る俺の右手を委員長の手がギリギリと容赦なく握りしめている。
「何、すんで、すか」
 手をノブから離され、身体をぐるりと左へ回され逃げ場のない壁面へ追い詰められる。ああ、所詮俺も草食か。

 ん? ちょい待て。
 俺の右手首をギリギリ締め上げる手とは反対の手にカップがある。それは、あの、俺が淹れた……レギュラーストレートなコーヒー(少し濃いめ)……。そのカップが委員長の口元へ運ばれていく。つ、とかたちの良い唇に茶褐色のコーヒーが触れ、口腔にのまれていく様に少々目を奪われる。
 右手首を掴んでいた手が離れ、俺の顎に触れる。カップから口を離した委員長は、それを飲み込むことなく、俺に顔を、近づけ、て――
 俺の唇に柔らかいものが触れる。不覚ながら少しだけ開いてた隙間から、ぬるりと、何かが(いや、そう、委員長の舌だ)入ってくる。

「――っ」
 抵抗しようと腕を上げたが、それよりも速く委員長の両手が俺の頭を(顔を、か?)逃がすまいとホールドしてしまう。カシャン。何かが割れる音が聞こえる。
 委員長の切れ目が微かに細められていた。その目に見透かされているような気がして、俺はぎゅうと目を瞑ってしまう。
 俺の顔に張り付き動きを封じる手に指を立て剥がそうとするが、出来ない。
 つ、と口の中に苦い液体が流れてくる。幾分ぬるくなったそれを飲み込みたくなくて、必死の抵抗。
 けれど俺の口内で好き勝手に動く委員長の舌、が、歯の付け根を掠めていく。
 ああでも息がいい加減苦しく、なってくる。
 頬を覆う委員長の手が、もういい加減折れたらどう、と言っているかのように力が込められる。

 ごく、とぬるくなったやや酸味のある苦い液体を嚥下すると、そこでようやく委員長が離れた。
 途端力の抜けた俺は壁に寄りかかりつつずるずるとその場に座り込んでしまった。
「に、が」
 濡れる口元と熱い頬を隠すためぐいと掌で拭う。

 口を覆いながら上を向く。天井からの蛍光灯の光による逆光で、委員長の顔は暗い。
「どうだった」
 何が! そう叫び返したくなるのを堪え、だってそうしなければもっと質問攻めになるのは目に見えている。
 だから俺は一度視線を落とし、爪先に迫る床に溢れたコーヒーの茶褐色を見、そして委員長、いや恭弥を見上げた。
「もう絶対飲まない!」


up08/02/25  加筆修正 08/04/22