さよならではなく、ありがとう


 ふわふわと、金色の髪が風になびいているのが見える。
 まるで太陽の色みたいだと、そう思うのは俺の頭がどっか感傷的になってるからだろうか。


 とても悲しいことに、つい先日俺と生活を共にしていたアメリカンショートヘアーの、猫のヴァンが享年一四歳で亡くなった。
 いつも学校から帰ってくると真っ先に(といっても、親無しの一人暮らしなので俺以外ヒトはいないけど)ヴァンが迎えに来てくれた。あいつはやたらと俺の感情に敏感で、学校で恭弥に叱られたりして気分が落ち込んでいるときはベッドにまで押しかけてきて、朝までずっと俺の側にいてくれるのだ。
 イライラしてるときは絶妙な間合いをとって、嬉しいときは一緒に喜ぶように足にじゃれついてきて。ヴァンに助けられたことは一回や二回どころじゃない。

 そう、あの日はやたらと何故か仕事が多くて、俺と恭弥が二人がかりでも日暮れまで応接室に引きこもってた。何だかんだで帰るのは八時を過ぎ、渋々恭弥のバイクの後ろに乗って家に送ってもらった。
 玄関に足を踏み入れたとき、いつもなら既に見えているはずのヴァンの姿がなかった。でもそんなことは時たまあったので大して気に掛けていなかった。
 もう十歳を超えて、人間に換算すれば四、五十歳超えをしているだろうか? あんまり無理はしてほしくなかった。
 いつもの定位置に鞄を置いて、1LDKの狭い部屋の隅にあるベッドに近づいた。昔より艶のなくなってしまった毛並みが丸まっているのを見て、その時ようやくおかしいと思った。
 微かに震える手をその毛並みに伸ばして、そっと触れる。

 ああ、思い出したくない――
 いつものあの柔らかな、そしてふわりと暖かい温もりある! そう自分に言い聞かせながら、撫でる。
 でもやっぱり、冷たくなっていた。

 俺のベッドの上で、ヴァン、お前は何を思ってたんだろう?
 ごめんな、もっと早く帰ってくれば良かった。そうしたら最期ひとりきりじゃなかったかもしれないのに。


 あの髪に触ったら暖かそうだなあ、と何故か思う。風紀委員制服の黒い詰め襟の胸元を掻き寄せながら、やはり俺は先日のショックからか少々魂が抜け気味。
 でもあのふわふわ感は似てるよな。うん、似てる。絶対似てる。きっと触ったら――……いや、冷たいかもしれない、いま冷たい物は触りたくない、あの時を思い出してしまいそうで。

 自宅のベランダからぼおっと跳ね馬を見ているとその視線に気がついたのかひとりで居る跳ね馬がこちらを向いた。そしてちょっとだけ笑うと、こっちに歩いてきた。
「よお」
 と、声を掛けられる。にこにこと笑顔で見るからに上機嫌。対して俺は不機嫌ほどでもないが気分は曇天。
「……こんにちは、跳ね馬」
「元気ないな。どうした?」
「……特には」
「ああ、さては恭弥と喧嘩でもしたか?」
 ひょいひょいと返ってくる言葉に、ちょっと嫌気が差してきた。ああ、今はほっといてほしい。
「だったら今こんな所にいません。知ってるでしょう?」
 なんか冷たいぞ、と笑顔のまま肩をすくめる。もう部屋戻ってもいいかなあ?
 もう部屋に戻ってしまおう、早く動物霊園探して葬式上げよう。そう思って踵を返しかけたとき、跳ね馬が言った。

「俺で良かったら、相談乗るけど」

 ああ、それ、恭弥じゃ死んでも聞けない言葉だよ。

「――部屋、入って」
 少しなら、いいかな。


 ヴァンは、タオルを敷いた籠の中にしばらく居て貰うことにした。籠の上からタオルを掛ける。
 跳ね馬は物珍しそうに俺の部屋を見回している。そんなに珍しい物ないって、狭いし。
「そこらへん、座って。コーヒーでいい?」
「ああ、ありがと」
 そういってテーブル(と言う名のちゃぶ台だ)の前に座った跳ね馬は、ヴァンの入った籠を少しだけ見てすぐに視線を反らした。
 小さいポットにお湯の残量があるのを確認してから、マグカップにインスタントコーヒーの粉を少々。俺は紅茶派。ふたつとも適当にお湯を入れてテーブルに持っていく。
「ミルクとかは」
「大丈夫」
 俺も座って、ひとまず自分を落ち着けるために紅茶を一口。熱い。当たり前だけど。

 跳ね馬は俺が口を開くのを待っているようだ。ああ、開かせてやるよと少々自棄になってしまうような、なってしまわないような。
 ぽつりぽつりと、恭弥にも話したことのない事を話していく。
 ヴァンについて。あいつにたくさん、山のように助けて貰ったこと。ほとんど今までを一緒に生きてきたこと……などなど。
 思い出す度に胸と鼻の奥が痛くなるのを堪えて、それが少しでも和らぐことを願って、俺は言葉を紡ぎ続けた。

「辛かったな」
 すいと跳ね馬の腕が伸ばされて、俺の頭にそっと、乗せられる。わしゃわしゃと混ぜられる。
 その一言で何かが吹っ切れて、ふと気がつくとテーブルに涙が幾つも落ちていた。思わず手で拭ってしまうが、もちろん広がるだけ。
 視界がまるで水の中にいるときのように揺らいで、俺は両手で顔を覆う。

 命ある物いつかは死んでしまう。俺も、今俺の目の前にいるのも。
 それでも、死んで欲しくなかったと願うのは俺個人のエゴですか。返ってきて欲しいと願うのは、でも返ってくるわけないと知っている。
 ああ悲しきかな、俺。


 流れる涙をひたすら手で拭っていると、跳ね馬がハンカチを差し出してきた。それを遠慮無く使わせて貰い、ハンカチに顔を埋める。
 うん、ほんとにね、恭弥に零したら「それで?」とかでばっさり斬り捨てられてた。と、思う。
 シャリ、とナイロンの布が擦れる音がして、跳ね馬が立ち上がったのが分かる。それでその後俺の近くに歩いてきて後ろに座ったかと思うとぎゅうと抱きしめられた。俺の身体の前で交差する、跳ね馬の腕。今は部下いないからダメダメなはずなのに。

「辛かったな」
 二度目、だよその言葉。
 ああ、でも。
 なんでだろう。あれだけ冷たく重かった物がすこしだけ、和らいだような。

 特に涙を止めるとか、そういった努力は特にせず(だって泣きたい気分だったし)自然に止まるのを待った。
 その間、跳ね馬はずっと俺を胸に抱きかかえて、こう、ちいさい子どもをあやす時みたいにぽん、ぽん、とゆっくりとしたリズムで優しく叩かれて、ああやっぱりこいつは俺よりも大人だなとか改めて感じる。
 ハンカチからようやく顔を上げて後ろを見ると、ばっちり跳ね馬と視線が合う。何故かその口元が笑う。
「何?」
「いや、目も鼻も真っ赤だぜ」
「っ!?」
 思わず俺は跳ね馬の腕を振り払って(もちろんハンカチは握りしめて)鏡の前に立った。
「――うぇっ」
 言われたとおりだった。泣きすぎのカウンターが今になってくるとは……っ! 真っ赤に充血した目は目薬で何とかなる。ってかあったかな目薬なんて。
 鏡に跳ね馬が映る。鏡に映る俺をのぞき見ている。うわ、見るなこの野郎。
「冷やしとけばいいんじゃねえか?」
 と、なんか軽く言ってくる。
 手元の水道の蛇口を捻って水を出し、それに握り込んでいたハンカチを突っ込む。ばしゃばしゃと洗って絞って、ぎゅ、と蛇口を閉める。
 三回ほど畳んだハンカチに、再び顔を埋める。あ、気持ちいいかも。

 しばらくその冷たさに浸っていたかったが、それどころじゃなかったと顔を上げる。
 そうすると鏡を仲介して跳ね馬と視線が合い、鏡越しじゃ失礼だと思って身体ごと向ける。
「……ありがとう、すっきりした」
「いやいや、これぐらいだったら」
 さわやかに笑顔。
「ハンカチ洗って返すんで」
「ん、いやいいよ? 別に」
「俺が嫌なんで」
「あ、そう……」
 きっぱりと言ってやると、どこか残念そうに返してくる。

「あのさ」
 今度は跳ね馬が俺に言葉を掛けた。いつの間にか俯いてハンカチをいじっていた俺は顔を上げる。
「猫の……ヴァン? の墓、出来たら墓参りにいっていいか?」
「何で?」
 間をおかずに切り返すと、少々詰まったようだけれども口を開く。
「ずっと君を見てたんだろ? 行かなきゃいけないとおもって」
 何その「行かなきゃいけない」って。
「……まあ、いいけど。じゃあその時に返せばいいかな」
「ああ」
 満足げに頷いて、跳ね馬は玄関に向かっていく。

「あ、ちょっとまって」
 俺が引き留め、何? と振り向く。
「しゃがんで」
 そう言うと、ほい、とすぐにしゃがんだ。
 目の前にきたふわふわの金色の髪に、そっと手を突っ込んだ。
 ちゃんと手入れしてるのか、梳いても引っかからない。何度か手で梳いて、ひと思いにぎゅうと顔を寄せてみた。
 やっぱりふわふわ。気持ちいい。
 ふわりと香るコロンも既に気にならず、俺はしばらく跳ね馬の頭を抱きしめていた。
 見事な金の髪は、冷たくなんてかった。微かに暖かくて、気持ちいい。

「……ちょ、ちょい?」
 頭の下から、いつもは上で聞こえる声がするってのは結構貴重な体験だと思う。
「そろそろ離してくれねえかな」
 そう言われ、渋々ながらに腕を放す。腰を伸ばした跳ね馬は、少しばかり照れくさそうに頬を掻いてから、靴に足を突っ込んだ。

「じゃあ、な。また」
 片手を上げてそう告げる跳ね馬の耳が、赤いと思ったのは気のせいだろうか。
 ぱたん、と音を立ててドアが閉められる。
 
 ふと、足に何かがまとわりついているような気がして、足元を見た。

「――、」
 半透明に透けたヴァンが、俺の足にすり寄っていた。最後に見たときと同じように、顔をこちらに向けて俺の表情を伺っている。
 心配してるんだろうな。そう思うと、最後の最後まで俺の心配を欠かさない彼に、ふっと口元が緩んでしまう。
「あり、がとうな」
 そっと呟く。
「もう、大丈夫」
 一人じゃないし。

 その言葉に(果たして人間の言葉が理解できたのかは分からないけど)満足したのか、すうと目を細めにゃお、とひと鳴き。
 頭をドアへ向けると、歩き出す。ぱしり、とヴァンの尻尾が俺の足を叩いていく感覚が、確かにあった。
 するりとドアを抜けると、それきり、ヴァンの気配はしなくなった。


up08/05/27