朝方、まだ誰もいない事務所の何重にも施された咒式錠を解除する。昨晩の状態そのままの状態で俺を迎えた部屋は暗く沈んでいた。俺は肩や腰に提げている魔杖剣を定位置に下ろすよりも前に窓へ近づき、締め切られたカーテンを勢いよく開け放つ。さらに窓硝子の鍵も解除、全開まで開けきる。
まだ街も眠りから覚めたばかりで動きも緩慢なように思えた。ひやりと冷えた空気が頬を撫でて部屋へと流れ込む。反対側にある小さな窓も開けて風の通り道を作り換気を促す。例え雪のちらつく真冬だろうと、茹だる熱さの真夏でも真っ先に換気。これが俺の日課だ。
珈琲を準備するために薬缶へ水を入れ、火にかける。沸騰するまでの間はソファーに身を沈めて待った。
朝の空気を胸一杯に吸い込み、吐き出す。一段落ついた所で、魔杖剣を提げっぱなしと言う事に気付いた。肩から提げていた魔杖鎌(ギギナのネトレーのように、刃と柄で分割できるように改造済み)をソファーの上に下ろす。
部屋に満ちた青臭い匂いが、吹き込んだ風に攫われて消えていく。そう狭くも無い部屋全体が冷え切った頃になってようやく、俺は大きく息を吐くことができた。
性交の残り香なんか嗅ぎたくないんだよこんちくしょうめ。ぶつぶつと悪態を吐きながら腰を上げ、窓を閉めていく。
あーあーあー。本当になんだろうこれ。俺に対する当てつけだろうか。そうしとか考えられない。
毎日ではないにせよ、ここでいかがわしいことが行われているということを考えるとやるせなくなる。仕事はするけど。
ぐらぐらと蒸気を噴き出す薬缶からマグカップに湯を注ぐ。インスタントの珈琲が溶けてさっと黒くなる。かき混ぜもせずに口を付けながら時計を見るとガユスが来るまであと30分はある。苦い液体をすすりながら(入れすぎた。濃い。)長椅子に腰掛ける。
ああ。再度のため息。どんどん幸せが逃げていこうがお構いなし。
慣れってこわい。今はもう、眉をひそめる事も顔を顰める事もなく対応する事が出来るようになった。初めてこれに直面した時はどうやって息を止めて作業をしようか頭を悩ませてたってのに!
起き抜けの腹に珈琲をブラックで入れた事を思いだして、ああまた胃が荒れるとか思う。でも多分ガユスの方が酷いと思うよ本気で。前髪は大事にしてね。
とは思いつつもおかわりは再びブラックで。二杯目を流し込んでいるとガユスが出勤してきた。だらしなく足を放り出して長椅子に腰掛けた俺を見やり、呆れと――僅かに動揺?――を含ませた表情でいつものように言葉を吐く。
「相変わらず朝がお早いようで」
「そ? もう年かしらん」
ガユスらしくもない表情の変化に何も見なかった気付かなかったフリをしてへらっと笑う。ほんの少しだけ歩きづらそうに足を動かすガユスを見て、口元の笑みは変えぬままに胸が締め付けられ呼吸が苦しくなる。
ガユスはそのままいつもの机へ。手に紙束を掴んでいたから、早速お仕事のようだ。
ああ。……別にガユスを責めてるわけじゃない。どうしても勝手に振り回されてる俺が悪いんだろーなー、もー。
大きく時間を開けずにギギナが部屋に足を踏み入れる。すぐに屋上へと向かってしまったが、俺の前を通る時にちらりと視線を向けられた。その視線の意味が分からずに背中を睨め付けたが、壁に阻まれ中止。程なくしてクドゥーが聞こえるようになる。それを合図にしていたのかは分からないがガユスが立ち上がり台所へ。血生臭い戦場にいるよりも、そこに立ってた方が様になる気がする(でもこいつの頭の切れには何度も何度も助けられてるんだよな)。
攻性咒式士にしては細い、男にしてもちょっとばかり頼りない背中に俺は音のないため息を一つ。手の中で腰から引き抜いた魔杖短剣をペンのごとく回しながらぼーっと見続ける。
まだ屋上から漏れる音は止まらない。
知られていないと、バレていないと思っているのだろうか。
いや、ガユスの事だそんな温い考えはしていまい。バレているとわかっていながらバレていないというフリをしている。そんな所だろ。
全くもって面倒くさい。
隠すなら完璧に、それこそ一欠片すら見せずに隠して欲しかった。――こんなこと知りたくもなかった。
こんなことが毎日恒例になってしまったら、俺はガユスを連れてどこかに逃げなくてはいけなくなるのではないだろうか。命をかけた鬼ごっこ、鬼はあのドラッケン。捕まったら最期、日の目を見ることは出来なさそうな大人のお遊び。
こんなことにならないことを祈るばかりだ。
「……はぁ」
冷えてしまったブラックコーヒーを流し込んでため息をつく。
「ため息か。幸せが逃げるな」
「お前には負けるよガユス」
自分のマグカップに、俺と同じようにブラックのコーヒーを入れてガユスが戻ってくる。心底どうでも良い、というように返した俺の言葉に、ガユスは片眉を上げただけだった。
いい加減買い換え時だと思うテレビのチャンネルを面白く無さそうに回しながら、ガユスはコーヒーをすする。
「……まあ、逃げるもんは全部逃げたかなあ」
口の中で転がすみたいにほんの僅かに呟いた言葉は、きっとガユスには聞こえていただろう。
クドゥーの音が途切れた。ガユスがきっと無意識に、階段の方へ視線を向けるのだろう。――ほらね。
今日も世界は俺に優しくない。
(優しかったことなんて今まで一度も無いんだ、きっとこれからも)
up12/04/03