幸福な死を


※首を絞める表現があります。苦手・嫌悪のある方は閲覧をご遠慮下さい。


 男にしては華奢な白い五指が喉へ伸びる。親指は喉仏を捕らえ、他の指はひたりと太い血管の上へまわっていた。いくら攻性咒式士が身体を咒式で強化していようとも、酸素供給不足による脳の酸欠は防げない。後衛といえども常人の倍程度は身体能力があるのだから、窒息を待たずとも首の骨を折るだけの力はあるだろう。は滅多に他人へ触れさせない皮膚を撫でられるぞわぞわとした感覚を覚えていた。
「――」
 ひゅ、と風切り音のような細い呼気。首を押さえる指先に脈が伝わる。伝わる心拍数は、至って一般的な平常時と変わりはなかった。
 このような状況になっても変わらぬ鋭さで、自らの上にまたがる男を睨むでもなく、ただ見上げている。ただガユスは、自分が腕に力を入れて頸椎を折るよりも、が抵抗して自分を投げ飛ばす方が明らかに早いだろうと思っていた。マウントポジションを取られているがこの男は前衛の攻性咒式士だ、出来ないわけがない。力の差は歴然だ。
 ガユスは無表情で眼下からの視線をうけている。ああ、何を考えているのだろうか。は今の状況を余所にのんびりと考えていた。

 はよもすれば絞殺されようとしていることに抵抗がないわけではなかった。苦しいのは苦手、嫌いの部類に入るものである(とはいえ戦闘中などはそんなことすっかり忘れきってしまうのだが)。
 絞殺など苦しいものでしかないだろう。苦痛の中に快感を見いだせるほど、変人じみてはいない。
 首に添えられた手はいっこうに絞まらない。ふざけてこんなことをする人物では無かったはずだと自問をした。だが、殺気は、ない。殺る気はあるのかと問いただしたくもなる。こうなった状況を反芻するが、よく分からない。
 死にたいわけではなかった。しかしガユスになら殺されてもいいだろうと思えた。山ほど人成らざるもの、そして人も手をかけてきた彼にとって、一人殺してカウントがあがることに今さら抵抗はないだろう。
 とはいえ理由も無しに人を殺す人間でもない。しかし現在の状況になった理由がにはよく分からない。いつも通りの日常を送ろうとしていたはずだが、どこでフラグを間違えたのだろう? 常と違うのであれば、彼が自分の首を締めることもあるだろう、と思考はどこか間違った所に落ち着く。

 さらには、ガユスが殺してきたその有象無象のなかに、自分を投げ入れることはしないだろうと自負していた。(異形のものどもはともかく、人の殺生についてはどこか敏感な部分があった。しかしそれもまあ、指揮者のスイッチが入ってしまえば割り切れる程度のものではあるにせよ。)
 彼はきっと自分を殺したことを忘れないだろうという自信もあった。おかしな自信だと思ってはいたが、自分が彼の、消えない胸の傷になれるならば願ってもいないことだった。
 いくら拭っても消えない自分の感情のように、傷痕を振り返ってそのたびに思い出されるのであればそれもいいと思えた。
 
 伝える気の無い感情など放り投げてしまえればよかったが、自覚してしまえばそんな容易なことではなかった。何よりも障害がそう簡単に乗り越えられるものでもなかった。最強で最凶レベルの剣舞士だなど、敵となる相手が悪すぎた。
 きっと何も抵抗する気にならないのは、首を絞める体勢のままぴくりとも動かないガユスが何を考えているのか分からず、こちらとしても今後の行動を思い倦ねいている、わけではない。よもすれば腕を上げて抱きしめてしまいたい。
 たった一言も言うに言えずに此処まで来てしまった。きっと言ったとしても、いつも通り流されてしまうのは目に見えている。言いたい伝えたいという天秤の片皿、言わずにいれば現状保持という片皿が揺れている。
 しかしこのままガユスの気も知らずに死んでしまえるのなら、この女々しいとさえ感じる自分の思いを胸に、いくらかは幸せに逝けるだろう。あの世があるのならそこで懺悔は死ぬほどしてやろう、それでこの思いが幾ばくか大人しくなってくれるのならば。

 ガユス、と吐息が名前を呟く。ガユスは規則正しい呼吸を繰り返し続け動かないが、名前を呼ばれわずかに心拍が跳ねたのが手のひらから伝わる。
 後衛の一人や二人が乗っかったとしてもびくともしない自信はある。しかしいい加減、としびれが切れそうになる。次の行動が欲しかった。

 俺が死んだら。
 ガユスは口読ができたはずだと、口を動かす。
 お前の不幸を一緒に、道連れにできたらいいのになあ。
 首に回る手に手を添える。首に触れている手のひらは温かいのに、手の甲はひやりとしていた。
「もっと、もっと強く、締めて」
 喘ぐような呼吸で、はないた。
 どうかお前の手で死ねるなら。


up12/07/01