デッドライン

 竜として生まれ人として生きたこの身体には、今ではもう人間の生き方が染みついている。一度全てを忘れて人間として随分長い間生きていたのだから、ふ、と自分が竜であったことを思い出しても簡単に昔のようには戻れなかった。
 咒式士であることを選び、気高い生き物であることを捨てた。どちらもと思えるほど状況は寛大になってくれず、今の職業上知らずの内に同族を何体も屠っていた引け目もあった。一度リセットされた時から続けてきたそこそこの生き方を思えば、昔の生き方がお伽噺の奇跡のように感じてしまう。
 そんな己をなんだかんだで受け入れてくれる暖かな場所は失いがたく、竜としての自分であればみっともなく思っただろうが、その温もりにすがりつくようにして生きている。
 人間として生き、生活しているだけあってもう同族達との交流も絶たれて久しい。寧ろ人間側の都合に則り狩る側に回ってしまっているのだからあちら側としても復縁などしたくもないだろう。同族殺しとは許されないもののひとつである。しかし時折耳にする久しい発音はすんなりと耳に馴染んで僅かな懐古心をくすぐるのだ。
 であるから、人間としてのが拠り所としている事務所のふたりが、ぼろ屑のように負傷して事務所に帰還したその経緯を聞いたとき彼はぴたりと動きを止めてしまった。
 酷く聞き覚えのある名前であった。寧ろ酷く近しい同族であった。けれど竜でありながら竜としての生き方を捨てたはない交ぜになった内心を押し込めて皮肉に顔を歪め、真っ先にかかりつけ医――というには横暴な闇医者だが――に連絡を入れた。
 赤竜であったという。妻がいたという。そしてギギナから派閥名を聞いてしまえば、それはもう確実であった。
 どたばたと闇医者へかかるための準備をしている最中、ごろりとガユスの手荷物から転がり落ちた牙はそっと一撫でするに止め、疲労困憊も甚だしい二人を連れ出した。

 施術室のドア上に点灯するランプを視界に入れながらはひとり固いベンチに腰掛けていた。
 またひとり同胞が死んだ。いや、もう竜であることを捨てているのならば同胞とは呼べないだろう。しかし真っ先にそう思ってしまうあたり、まだ未練があるのは事実だった。
 遠い遠い昔、まだ自分もまわりも若かった頃が脳裏によぎった。あの赤い鱗は全てを灰へと還す紅蓮の炎のようだと歯の浮きそうな台詞も思い出す。余程胸くそ悪い仕事だったのか、まだ経緯はふたりの口からは語られていない。
 どうして刃を交えることになったかは時間つぶしの手慰みに考えてしまう。切りそろえられた爪先で、緩く自身の肌を掻く。
 今回は前衛と後衛のペアが出るまでもないだろうと判断された仕事を請け負っていた所為で、件の事件に遭遇することが出来なかった。どうにかすることができたのではないか、とか、もし自分が居れば、などと他愛も意味もない思考が巡る。墓参りでもしてやりたいと思うが手荒い歓迎を受けるだけだろう。そう思うと無性に悲しくなった。とはいえ一度捨てた立場を再度、と望むことは死んでもないだろう。選んだ道は最後まで貫く決心は揺らがない。
 しかしまだ僅かな郷愁を抱くこの胸は、これからもことある度に疼痛を産むのだろう。掻きすぎて赤くなった手の甲を見下ろし、一つ深いため息を吐いた。


 いつの間にか施術中を示すランプは消えており、内側からドアが開く。ギギナの方は自分の足で立って歩いていたが、ガユスはベッドの上だった。身体は咒式により高速治療が行われたとしても、失った体力は休養でしか取り戻せない。しばらくはよく休めとガユスを諭し、施術室から出たきり一度も口を開かないギギナを伴って事務所へ戻った。
 ヴァンを走らせる道中に会話も無く、事務所の駐車場に車を停めるとギギナはさっさと事務所へ上がってしまう。その背中を見やりながら、は屋上かな、と目星を付ける。屋上で剣術の反復、そして時折クドゥーを静かに行っているのをガユスもも知っていた。竜を屠った後密やかに行われるそれはもはや定例だ。
 車の鍵は定位置に戻す。静まる事務所内で耳を澄ませると、やはり階上から旋律が聞こえる。竜へと捧げられるそのうたを聞きながらどかりとソファーに腰を下ろし深々とため息を吐いた。元々良い声をしているだけあり朗々とうたわれる音は耳に心地よい。
 正体をばらしてから随分と経ち、人として残りの寿命を使うと宣言してからもそこそこ経つ。だからこそあのうたが自身に捧げられることはないだろうと思っていた。あの歌声で送られるのであれば、あるかどうかも定かではない天国でも地獄でも行けるような気がしていた。
 日課であるコーヒーメーカーのセットもせずにソファーへもたれ掛かり目を閉じているといつの間にかクドゥーは終わっており、瞼を上げれば丁度階段を下りてきたギギナと目が合う。ばちりと視線が合った後にギギナは口元に皮肉の笑みを浮かべた。
「何を物欲しそうにしている」
 直前まで脳内を回っていた思考を読まれは眉を潜めうるせぇ、と一言。それに対する反応はなく、ギギナはヒルルカの元へ。滑らかでなだらかな曲線をついと白い指がなぞり上げる。差し込む光が窓で切り取られ帯状となりその風景に明暗のコントラストを添えてる。木目も美しい彼曰くの娘に腰掛けた姿は完成された彫像のようだ。ギギナと彼が腰掛ける椅子の空間だけが別世界のような錯覚。美しい、だなどとは思っても口には出さない。
 その代わりに、と口を開いた。
「なあ、俺が死んだら」
 肘掛けに落ちていた銀の視線がを見た。無言で言葉の催促をしている。
「気が向いたらでいい、クドゥーをうたってくれよ」
 途端に刺さる視線が冷気を帯びる。ひやりとした刃物を突きつけられているようだった。しかしそれでも、はうっすらと口元だけの笑みを浮かべている。言葉遊びの延長線だと思ってもらって構わなかったが、願いは切実であった。死んで意識が霧散した後のことは自身で確かめようがないが心持ちの問題である。
「お前にそれほどの価値があれば、だ」
 ドラッケン族は竜に対しての敬意と畏怖を込め讃え、そして屠る。竜であることを捨てたお前が何をいうか、と目が語っていた。
 非難を受けながらも頷いてみせる。薄く刷かれた皮肉の見えない笑みに、冗談交じりではない事を知る。が持ち前の根暗さを発揮している様子にふんと鼻を鳴らし会話を終了させたギギナは、まだベッドの上に横たわっているだろう自身の相棒を思い浮かべ似なくてもよいところが似たものだと内心で悪態をつきヒルルカの腕を撫でた。

 果たして人として死ぬのか、竜として死ぬのかには想像が付かなかった。しかし中途半端に咒力が切れると体内咒式が途絶え人の姿が保てなくなる。死んで咒式が切れ竜の姿になってしまうのならば死に場所も考えなくてはいけない。自分の身体を研究素材として差し出したいと誰が思うだろうか。
 ああ、死ぬならぽっくりいきてぇな。できるなら、跡形も残さずに。
 深いため息を吐きながら肘をつき、何気なく向けた視線の先には部屋に馴染まない竜の牙が太陽の陽をあびて鈍く光っていた。


up14/02/26