Accelerando


「またか」
「またあいつかよ」
「何をやっているんだ一体」

 ざわざわとした喧騒の中、そんな声がの耳に届く。ガタガタと石畳の上を転がる木製の輪はちっとも衝撃を緩和させる気がない。
 背中の怪我による出血で浅い呼吸を吐きながら、馬が牽く台車に揺られていた。壁外調査での負傷兵が他にも数名同席している。
 は左翼索敵第五班に属していた。しかし彼と班長を含む数名を除き他班員は巨人と遭遇し戦闘の後死亡。さらに彼は撤退時、巨人に襲撃を受けた別班員を4名救出するが自身も背中に怪我を負い、今に至る。
 現在討伐数よりも討伐補佐の数字が上回っている状態だが、実際にはそういった救出人数の方が遙かに上をゆく。立体機動の使い方も若くして熟知し、己が効率よく動ける最短を探し出すことが出来る。巨人を滅する手腕もかなりのものである。しかし、天才の思考が他には理解しがたいものであるように、彼の行動は多くの調査兵団員には不可解なものであった。
 鈍い痛みを追いやろうと、は目を閉じる。荷台の揺れは、遠い昔に街を移る際に家族で乗り込んだ馬車を連想させた。

 手当を受け、割り振られている自室へよろよろと覚束ない足取りで戻る。途中何人かに不審がられながらも到着し、ドアを開ける。シャツの第一から第三ボタンまでを外しながらベッドに倒れ込む。暫く静養期間として、訓練の参加は強制されていない。
 俯せでしか寝られない不満はあったが、壁外調査の疲労、負傷の疲労とが重なり落下するように意識は飛んでいった。

 ふと気付いたことだったが、はここ数年夢を視ることがなかった。あまりにも疲れて眠りに入るため、夢を視る暇がないのかもしれない。けれど、僅かなうたた寝程度でも夢は見た覚えがなかった。
 どうして夢を視るのか、その理由をは知らない。けれど、夢を視ないのは少し寂しいことだと思った。夢でなら、死に行った仲間を見る事が出来る。過去の出来事を、ふとした時に夢に見て思い出すきっかけになるだろうがそんなことも出来ない。
 今日もまた、夢を見ることなくは目覚めた。
 俯せの姿勢はなかなかに呼吸が苦しい。枕から顔を上げ、見慣れた明るさにいつもの時間帯に目が覚めたことを知った。
 引き攣る背中の傷に苦戦しながら身支度を調え、朝食を摂りに食堂へ向かう。数人の同期が体調を気遣い声をかけてくる。それにひとつひとつ返しながら、簡素な朝食を胃に収めてゆく。倒れたときに口の中を切っていたようで、スープがじくりと傷に沁みるのが辛かった。

 パンを咀嚼し水で流し込み、スープを飲む。そんな動作をいつもよりゆっくり行っていると、次第に辺りは閑散としてくる。訓練の開始時間が迫っていたり、勤務時間が始まるからだ。
 食事を終えて盆を返しに歩いていると、こちらに近づいてくる長身の姿が見えた。分からないはずもないその姿は調査兵団団長、エルヴィン・スミスであった。すぐに盆を所定の位置へ返すとエルヴィンに向けて敬礼。の数歩前で立ち止まった男は、多少ラフな敬礼を返した。すぐに腕を下ろしたため、もそれに倣う。
、で間違いはないな?」
「はい、間違いありません団長」
 ほぼ15センチほどの身長差があるため、目を見ようとすると自然に見上げるかたちになる。
 今までは索敵陣形の索敵位置――最も危険性の高い、つまり巨人と接触の可能性が一番高い場所――に配置されることが多く、直接エルヴィン達と関わる事は少なかった。
 が知る限り、この人物は大切な事は己の目で見て己の手で決断を下す男だった。きっとこの、食堂に一人きりの状態に現れたのは狙ってのことに違いない。そこまでして自分に何の話があるのだろうか。は今になってすうと脳裏が冷えるのを感じた。
「背中に負傷したと聞いたが、怪我の具合は?」
「はい。ご覧の通り動けないほどではありません。浅いという訳ではないようですが…」
 けれど立体機動での負荷には耐えられない。そんなところだった。
 エルヴィンはふむ、と思慮顔でを見つめた。彼の脳内では様々な思考が飛び交っているのだろう。
「少し話したい。座らないか」
 すぐ隣の椅子を指す。はい、とが頷く前にエルヴィンは腰掛けた。は椅子を引き、失礼しますと小さく頭を下げて座った。

「君の戦果についての記録を見たのだが、討伐数討伐補佐数共に非常に優秀で何よりだ」
 資料を思い返しつつ話しているのだろう。簡素なテーブルの上で組まれた人差し指が、緩いリズムをとっている。
「しかし気になるのは救出数、とでも言おうか。多くの兵士が目撃している。君の行動を否定する訳ではないとあらかじめ言っておきたいのだが、何故、君は団員の救出を行うのだろうか?」
 エルヴィンの視線は真っ直ぐに射貫いてくる、さながら弓矢のようだとは感じた。こちらの真意を読み取ろうとし、さらには自己の理解のため容赦なく見透かそうとする、矢の視線。
 いつかはこんな疑問を直接投げかけられるだろうとは思っていて、それがようやく今行われていることに場違いの感激を感じていた。今まで怪訝な顔をして避けられることはあっても、自らの行動について問いただされたことなど無かったからだ。
「――誰しも、死は回避したいもの。だと思っています」
 とはいえ準備していた回答があるわけではなかった。頭の中にある自分の行動原理を少しずつ削って言葉にしていく。言葉に集中するため、自然と視線がテーブルに落とされる。
「新兵であれ熟練の兵であれ、巨人の脅威は計り知れないものです。それを目の当たりにして、立てなくなる兵士を多く見てきました」
 巨人に対抗する手段を手に入れたとしても、倒せるだけの技術を持っていても意志を潰されてしまえば人は動けなくなる。それは精神的外傷となっていつまでも当人を蝕むことになるのだ。
「何故助けるのかと問われれば、それは巨人への反抗です。私ひとりが出来る範囲なんて、たかがしれています。それは理解しています。
 けれど死に瀕する仲間を助けられるのであれば助けたい。その先、もう戦場に立つことが出来なくても、食われるよりはずっとましです。傷は治ります。死んだら生き返りません。死ぬより生きていた方がずっといいです」
 テーブルの表面に見える節を睨みつつ己の信念を語るをエルヴィンはじいっと見ていた。
「口に出してみると、随分自己満足のように聞こえます、ね」
 自嘲気味に少しだけ口元が歪むのが見える。
 最初声をかけた時はどこかふわふわとした雰囲気さえ感じられたが、今は鋭い眼差しへと変わっていた。しかしその言葉に殺気はない。ひしひしとした決意を感じる。
 
 の奇妙な行動にエルヴィンは僅かながらの興味を抱いていた。一般には理解されずらい行動の意味が知りたかったわけではなかった。仮にも団長という地位である、そんなことを気にして確認するほど彼は暇ではない。
 ただ敵へと投げ込む一矢にするのではなく、他の方面への配置も有効ではないのか。それが降って湧いた疑問だった。
 若いが技術や心身の練度は問題がないと書面では記されている。戦果は言うまでも無く十分。
 日報や週報、現在月に一度の頻度で行われる壁外調査、そういった日々の報告書で名前は目にするため認知はしていた。けれど当人の持つ空気は、文字では計れない。
「そうか」
 話題を切り上げるようにエルヴィンが短く発する。その一言で、はようやく顔をあげた。
「変な事を聞いて悪かった。私はもう行くが、これからも君の活躍に期待している」
 突っ込んだことを聞いた割に、やけにあっさりしているとは思う。
 イスを引いて立ち上がろうとするとそれよりも早くが立ち上がり、敬礼。しかし背中の傷に障ったのか左腕を背後に回せない。
「無理はしなくていい」
「すみません……」
「話ができてよかった。では」
 不完全な敬礼に見送られ、エルヴィンは食堂を後にする。その背中を目で追いつつ、は今になって緊張の息を吐いた。
 何かを試されていたような、いや、試されていた。何故、今回個人面談が行われたのかは分からなかったが、何か一悶着がありそうだと感じる。戦うための準備をしているような気がした。
 肺の中を空にする勢いで重いため息を一つつく。
「……もどろ」
 まとめるには考える為の情報が不足している。無理矢理思考を切り上げ、もようやくがらんとした食堂を離れ自室へと向かった。


 負傷から復帰したを待っていたのは突然の異動だった。長らく世話になった班長の元を離れ、リヴァイ兵士長の直属に配属が決まったのだ。
 それを当人が知ったのはいつも通り朝食を終え所属班ごとの点呼を行う際で、異動を告げる班長も複雑な表情をしていた。
 指示された場所で待機しながら唐突すぎる出来事に目を白黒させているに、どこか不機嫌そうな、眉間に皺を寄せたリヴァイが近づいてくる。さらにその後ろにはエルヴィンがいた。
 ふと、あの忘れもしない食堂での個人面談を思い出した。自分は恐ろしく頭の回る団長のお眼鏡に適ってしまったのだろうか。いや、どこが。自問自答する間も二人との距離は縮まっていく。
 もう背中の傷が引き攣ることはない。だん、と右手の拳を左胸に叩き付ける。
「元マルクス班所属、です!」
 リヴァイの鋭い視線がを貫く。体感温度が急激に下がったが、脈拍は緊張のため静かに早くなる。
「こいつか、エルヴィン」
「ああ」
 敬礼姿勢のまま動かない――否、動けない――を余所に二人がぽつりぽつりと会話を交わす。
 一度離れた視線が再びへ向けられると、耳元で一際大きく心臓の音が聞こえた。


up13/08/12 Title:縁繋