朝独特のひんやりとした空気が頬に触れる。その冷たさにはふと意識を覚醒させた。
枕に頭を預けたまま窓に目をやると薄いガラスの戸が開いており、生成のカーテンが吹き込む風に揺れていた。昨晩閉めるのを忘れていたらしい。防犯に不用心だと思われるかもしれないが、大してめぼしい物もない二階のこの部屋までわざわざ壁を登ってくる輩はそうとうな暇人だろう。
とはいえ、秋口の朝は凍えるほどではないが肌寒い。はベッドから起き上がり、まず窓を閉めた。そのあと朝食の準備のため簡素で小さな台所で火の準備を始める。
親はふたりとも仕事の都合で他の街に赴任している。それもここ3年ずっとなのだから、まだ13歳とはいえひとり暮らしにも慣れたものだった。
湯を沸かして温かい飲み物をつくる。パンをあぶり、昨晩の残りであるスープを温め皿に盛る。皿に直接スプーンをさしてパンをくわえ、空いた手にマグカップを持ってテーブルに向かう。
至って質素な朝食ではあったが、これがいつもの風景だ。食事を前には手を合わせ――食事にありつけること、食べられることに感謝しなさいという親の教育からだ――いただきます、と礼をする。スープを掬って口に運ぶのはそれからだ。
窓は閉めたが、カーテンは閉めていないため外の風景をぼんやり眺めながらパンを咀嚼する。良い天気だ。しかし四角く切り取られた風景の隅に、この街を高く高く囲む壁が見える。シガンシナの壁は、いわば人類の壁でもあった。
繁華街からは離れているこの家は元々の生家ではなかった。医者をしている両親はそこそこの収入があったためそこそこに立派な家を持っていた。しかし仕事が忙しくなり他の街へ出ずっぱりになることが多くなった。子供ひとりきりで暮らしていくにはその家は大きすぎ、悩んだふたりは知人にを預け、家は多少の条件を付けて貸している状況だ。
今ひとつ乾燥したパンをスープで流し込む。使った食器はすぐに洗った。
は親からの仕送りと、部屋を貸して貰っている知人の店での手伝い賃で日々を過ごしている。余裕があるわけではないが、苦しくはなかった。
身支度を調えると今日も店の手伝いのため部屋を後にする。
一番人通りの多い道に店を構えているため、こぢんまりした店構えといえども来客は多い。は重要な仕事を任されるわけではなく、商品の補充であったり、使い走りを頼まれたりといった事が主だった。
通りからよく見える位置の棚にじゃがいもを並べていると、背後から小さい足音が聞こえる。
「!」
子供特有の少し高い声が聞こえたかと思うと、背中にぼふりと抱きつかれる。腹に回された腕に力が入り、簡単には離さないぞという意志が現れている。
身体のバランスを崩しかけたは落ち着いて手に持っていたじゃがいもを戻し、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる腕に手をやりながら振り返る。
「エレン、く、苦しい」
「へへ。おはよ、」
背中に抱きつきながら、にかりと笑うエレンはまだ随分と幼い。肩掛けの鞄をかけているところをみると、お使いのようだ。
「今日はひとり?」
「ひとりでお使いだよ。いいものある?」
「あると思うけど、苦しいから離して」
「ええー」
まん丸い金の目を細めて、ぶうと口を尖らせる。店の奥から店長の小さな笑いが聞こえて、はすこし恥ずかしくなる。エレンが店に来ると度々みられる光景で、なおかつ少年には悪意がないため店長から温かく見守られていた。
とはいえ全力でがっしりホールドされているため動けない。引き摺って歩くわけにもいかず、はエレンにあれこれ言い聞かせようやく腕が離れた。
「今日は何かな」
「じゃがいも、にんじん、ひよこ豆、ローリエの乾燥したやつ」
をずいと見上げ、エレンは覚えてきた品を告げる。じゃがいもは今新しい物を並べていた所であったし、にんじんも今朝方新しい物が届いた。豆とローリエについては乾物であるから問題はない。
「じゃあ、大丈夫。カゴ持って」
籐のカゴに選んだ食材を一つずついれていく。丁度良い数になると、エレンが意気揚々とストップ! と叫ぶのだ。いかにも微笑ましい。
目的のものがカゴに入ると、それを抱えてエレンは会計のテーブルに近づく。先ほどからとエレンのやりとりをにこにこしながら眺めていた店長はそれを受け取り、会計をした。
肩掛けの鞄が一杯になるのを見届け、てっきりもう帰るのだと思っていたは、相変わらず眼下からじいっと向けられる視線に首を傾げる。まだ色々と話し足り無いとというような顔だ。困ったように振り返れば、店長が小さく手を振った。そして小声で、ちょっとだけだよ、とも囁く。
その心遣いに感謝して頭を下げ、はエレンの手を取って歩き始めた。
エレンからすると、はいつもよくしてくれる大事な兄のような存在だった。グリシャとの両親は顔見知りで、その為子供同士も幼い頃からの付き合いがある。
いろんな所へ遊びに行ったりするときは年長と言う事もあり、引っ張ってくれる存在だ。
しかし今、自分の手を取るの表情がいつもと違う事にエレンは気付いていた。何か難しい事を考えている顔だった。
色々な事を話せば楽しそうに返してくれるが、どうにも納得がいかない。
「、何か難しい事でも言われたのか」
くいっと手を引かれ言われた言葉に、は驚く。思わず足を止めてしまった。心配の色を湛えて見上げる目はとても真っ直ぐだ。
「いや……別に、無理難題を押しつけられてることは、ないよ」
「むずしい顔してた」
人通りの多い真ん中で立ち止まるのは迷惑だと思い、ふたりは道の端へ移動する。壁に寄りかかりながらも、エレンはじっとを見ていた。言うまで満足しないぞ、と幼いなりの圧力を感じた。
「……まあ、いつかは言わなきゃいけないこと、だけど」
観念したようには口を開いた。
「何が?」
「来週になるけど、俺、シガンシナから出る」
は途切れることのない人混みにぼんやりと目を向けている。
「出るって?」
エレンは率直な疑問を投げかけてくる。それが今は少し怖かった。
「親が、トロストにいるんだ。お前も知ってるだろ、俺の両親も医者をしてるんだ。そっちで、いろいろと上手くいったんだって。今まではこっちに戻ってくることが前提だったけど、もう向こうに引っ越すってことに決めたんだと」
「……もついていくの」
明らかにエレンの声のトーンが変わった。の経験上、それは彼が我慢をしている時の声色と似ていた。痛いのを耐えていたり、本心を隠していたり。耐えていることに間違いはないだろうと思った。
「うん。……この前の手紙に船と馬車の切符が入ってて、それが来週の便なんだ。いつか言わなきゃとは思ってた。遅くなってごめん」
がやがやとした喧騒はあるものの、ふたりの間には静かな時間が横たわっていた。
はこのことを告げるとエレンは暴れるのではないかと思っていたが、隣に佇むエレンは上着の裾を掴んで、何事か考えているようだった。
騒がしいのに、寂しい。そんな空気が嫌で、は自ら別の話題を切り出した。
「トロストの方で、訓練兵団にも入るつもり」
「兵士になるんだ?」
僅かに声色が戻った。調査兵団の隊を見かける度目を輝かせているのをよく目撃していたため、話題には食いついてきてくれた。
「そう」
「どこに入るの?」
「それは……考えてない。でも死ぬつもりは無い」
「は外の世界を見たいと思う?」
矢継ぎ早に質問され、最後のひとことにははっとなってエレンを見た。今の時代、外の世界に関する事はタブーとされている。しかしは、エレンが彼の友人であるアルミンと共に外への思いを募らせているのを知っている。
にも外の世界への欲求が無いわけではなかった。
「……まだ、どこの兵団に入ろうかとかは、決めてないんだ。死ぬつもりは無いよ。またエレンと一緒に遊んだりしたい」
無理矢理話をそらしたと思われるかもしれなかったが、はそう返した。本心だった。
「おれも。約束だぞ! また遊ぶっての、忘れないように!」
の眼前に、エレンが小指を突き出す。その意味を理解して、少しだけ笑ってしまう。
「うん、約束。指切り」
「忘れたら何をさせようかな〜」
「酷いなあエレン、絶対忘れないって! お前も忘れんなよ、なにかさせるからなっ」
小指を絡めて上下に振る。ぱっと晴れたエレンの顔に、つられても笑顔になった。
ただの子供だましとも言えるような約束。そうだとしても、幼いふたりはそうやって証が得たかった。
良くしてくれる兄のような存在が遠くに行ってしまうという事、そして兵士になるということ。エレンには辛い事実であった。しかし泣いて駄駄を捏ねた所で何の解決にもならないというのはよく知っていることだった。
「まだ仕事があるから、あとはひとりで帰ってね。いい? 寄り道しないこと、ケンカしないこと」
「わかってるって」
そう返されたものの、口よりも手が出るタイプであるのをよく知っている。小さく苦笑して、はエレンの頭を撫でた。
「またね」
そう言って手を振って送るの姿は、今までよくみた光景だった。これが見れなくなるのは、寂しかった。それを隠すように、エレンは荷物が跳ねて落ちないよう鞄を抱え、家へと一目散に走り出した。
店に戻ったは、その後の仕事を順調に続け一日を終える。
店長から、少し痛んで店に出せないリンゴを貰ったためそれを囓りながら自室に戻る。朝と同じような食事を取り、寝る前に引っ越しの為の荷物整理を始めた。
部屋に物は多くはない。少しずつやったとしても、出発までには十分間に合いそうだった。
一日のやるべき事を終えてベッドに横たわったは、昼間の出来事を思い出していた。
エレンとのやりとりを反芻する。死ぬつもりは無い。死にに行くつもりも無い。けれど、内地で安穏と生きるつもりも無い。
そうなると自然に道は決められてくる。弟分との約束は、破りたくない。いつかここに戻ってきたい。
(そうなればいい、っていう希望ばっかりだ)
ごろりと横を向く。
けれど思っていることに偽りはないし、本当にそうなればいいと思っている。子供っぽい願望だなあ、とはひとりで笑ってしまう。
窓は閉めた。明日の朝は、肌寒さで起きることはないだろう。
案の定、出発の日にはご丁寧にイェーガー家総出で玄関で挨拶を受けた。
エレンは涙を堪えている様子であったし、カルラは手土産にと焼き菓子を持たせてくれた。グリシャは心配そうに頭を撫で、気をつけてと温かい言葉をくれた。
船乗り場まで四人で歩き、他愛のない話をした。
向こうはシガンシナよりも内地であるから、いくらかは豊かだろうということ。両親の仕事がうまくいっているという事に対する純粋な喜び。昨晩はエレンがなかなか寝付けなかったこと。
出航時間のギリギリまでエレンはにくっついていた。そのせいもあって、目一杯四人で話し込んだ。笑いが絶えなかった。
荷物を抱え桟橋を渡る。が最後だったのか、すぐに橋は外されてしまった。
やがて船がもうもうと煙を上げ、動き出す。それにあわせてエレンが走り出しそうになるが、カルラが肩を押さえた。
はエレンに向かって腕を上げる。少し前に指切りをした小指を立てている。
「約束! ちゃんと覚えてるから! 破らないから!」
船の機関が発する音と水音にかき消されないよう、精一杯の声を出した。その声はエレンまで聞こえたらしく、エレンも腕を突き上げ小指を立てる。
「おれも!!」
そう叫んで、ついにエレンは泣きだした。ここまでよく我慢したなあ、とは笑ってしまった。
シガンシナが遠くなる。ウォール・マリアの壁からどんどん遠くなる。
新境地での生活に対する不安はあるが、先に親が居るためなんとかなるだろう。訓練兵になることも決めた。やりたいことが心にあれば、どうとでもなるとは思った。
川のうねりと森に紛れて見えなくなるシガンシナに、はエレンとの再会を心に誓った。
up13/08/12 Title:縁繋