Einsatz

 時々、訳もなく泣きたくなるときがある。腹の奥底からわき上がる自分でも名の知らぬ、けれどとてつもない衝動にせき立てられ喉の奥が灼かれるような吐き気を覚えるのだ。訓練兵になった頃から度々訪れるこの感覚を、は親にさえ話したことはなく、これは外に出してはいけないものだと幼心ながら気が付いていた。例え誰かに吐露したとて、全く取り合ってもらえないもしくは心の病気を疑われてしまうだろう。
 調査兵団員として短くはない期間を過ごし、生き残ってきた彼にとってこれはその代償なのだろうかと思うときがあった。しかし訓練兵時代の事例に当てはまらず首を捻ることになり、発作のように不定期に身体を苛む感覚が訪れる度は歯を食いしばった。

 シガンシナに住んでいた頃からの顔見知りでありにとっては弟分のような存在であったエレンが、調査兵団に入団することになった。それも"巨人化"というとんでもない付加を持って。なんであの子が、どうして、というありきたりな感情が過ぎ去った後に残ったのは、人間でありながら巨人の衝動を抱えることになったあの少年は果たして人であり続けられるかどうか、だった。
 金の瞳を持つ少年と数年ぶりに再会したのは、煉瓦で囲まれた薄暗い地下牢だった。調査兵団団長であるエルヴィン・スミスとその部下であるリヴァイが少年の行く末についての見極めを行っている現場に、は地上からの報告を届けるために足を運んでいた。
 足音は確かに響いていたはずだが、二人の上官はひたと眼前の檻の中を見つめていた。じゃらりと重々しい鎖の音で気が付いたようにエルヴィンがに顔を向け少し待てとアイコンタクトを送る。顎を引いて了解の意を送るとすぐに視線は外された。

 1匹残らず、と呪いの言葉を吐いたエレンの声にはぞくりと肌が総毛立つのを感じた。
 けれど同時に、発作のような衝動が湧いて上がる。何故今これが起きるのだろうと不思議に思うが、すぐにエレンの言葉からだろうと判断する。にはエレンほどの巨人に対する憎しみは持ち合わせていない。憎い存在であり消し去れるものならと切望しているが、あそこまでではないと断言できる。それなのに、今胸くそ悪い吐き気を覚えているのはエレンに対してではない。少年の言動由ではない。
 この衝動を、あの少年なら名付けてくれるかも知れない。何故か意味も無く、安堵していた。


 今日も今日とて、古城の掃除に特別作戦班は忙しい。同じ場所を指示されたエレンとは、近くに班員がいないのを見計らってぽつりぽつりと会話をしながらひたすら掃き掃除をしていた。
 先日、久しぶりに胸の奥を灼く衝動がを苛んだ。何かしなくてはという焦燥感ばかりが急いて苦しくなり、くらくらとした吐き気に変わる。何故焦りに似た衝動が起こるのか未だに分からず、理由は掴めていない。
「エレンは」
 その発作が少しだけ久しぶりであったから、は竹箒を動かす手を止めてぽつりと呟いた。名前を呼ばれた少年は、きょとりと目を開いて短い返事を返す。
「時々どうしようもなく泣きたくはならない?」
 質問を投げかけた後で気恥ずかしくなり、止めていた手を動かす。ざかざかと砂埃を隅へ掃き集めていく。
「……自分自身の無力さに、どうしようもなくなるときはある」
「俺でもまだ出来ないことは山ほどあるんだから、お前はもっとだろうなあ」
 思わず苦笑いを覚える。そうだな、とどこか悔しそうにエレンがぼやくのが聞こえた。
「時々、どうしようもなく焦燥感に駆られて、なにかしなくちゃいけないと思うのにその"なにか"が分からなくて、苦しくてどうしようもなくなるんだ、長いこと。――ああいや、独り言だと、思ってくれ」
 変な事聞いて悪かった、とは撤回して掃除に集中するが、エレンは手を止めてをじいと見つめていた。
さんて、律儀だと思う。約束は覚えてるし、きっちりしてるし……。何かが、ひっかかるのかな、と俺は思ったんだけど」
 再度の手が止まった。ひっかかってる?
「……どうなんだろう」
「流石に俺は分からないから、それは自分で考えてもらわないと」
「まあ、ねえ」
 曖昧な返事を返したきり、会話は途切れてしまった。砂埃とゴミを集める竹箒が床を掃く音だけが二人の間に落ちる。

「変な事言ってすみませんでした」
 道具を片付けに行こうとしたの背中に、エレンの少し張った声が投げられた。振り返ると、少年はどことなく緊張した面持ちだ。
「さっきの? 元々はこっちが変な事聞いたわけだし、いいよ」
「はい。……俺に相談してくれてありがとう、さん。ちょっと嬉しい」
 エレンはすぐ傍まで駆け寄ってくると、ふたり分の掃除道具をの手から奪い取る。にこりとに笑いかけて、走り出した。それが照れ隠しだろうと言う事は明らかで、ぽかんとするは少年の純さに苦笑する。追い駆ける気にはならず、ゆっくりとした足取りで歩いていく。
 ひっかかるという言い方をされたが、心残りや後悔は山ほどしてきた。ただどれも、引き摺るほどの重みはないはずだった。ゆっくりと記憶をひもといていく感覚は久方ぶりで、漁るごとに僅かな靄が胸に落ちる。
 訓練兵一年目、そして調査兵団入団、初めての壁外遠征、仲間の死、助けられなかった仲間達、手を伸ばした先の絶望。
 ひっかかっていること。何度もエレンの言葉が繰り返される。積み重なった胸の靄が、重くのし掛かっていた。


up13/10/21 Title:縁繋