枯れ野にて

 次回の壁外遠征に向けて、調査兵達が陣形の訓練をしている。エルヴィン・スミス考案の陣形をなぞり維持することが、現在巨人の巣窟と化している壁外で活動するための唯一であった。その陣形に不備があり、万が一機能しなくなり崩壊するともなれば多大なる犠牲が容易に導かれる。壁の外ではちっぽけな命の一つになる人間が生き残るため、訓練は欠かすことが出来ない。
 は馬上で合図を待っていた。兵長付きの身分であるため傍にはリヴァイが黒馬に跨り、同じように信号弾が上がるのを待っている。暇を持て余す愛馬が草を食み始めたのを止めることも出来ず、暖かな首を何度かさすった。
 合図である信号弾が上がり次第出発し別班と合流した後に森の中を抜け、本隊と合流するという訓練内容だ。その後も訓練結果の報告から、必要あらば団長が追加で訓練の指揮を出すだろう。

 それにしても、手持ち無沙汰である。上空を注視しておかなくてはならないのだが、寒空の中いくらか対策をしているとはいえ足先などは随分冷えているし、こうも長時間変化がないと集中力が切れかかってくる。耐えるのも任務の内だというのはわかりきっているため、もどかしい。
 の視界の端に映るリヴァイはぴんとした乗馬姿勢を崩さず、手綱を手に周辺へ視線を向けている。男にしては小柄な体格に大柄な黒い愛馬は、しかし彼の雰囲気と相まって威圧感すら滲ませている。ぶるり、と馬が嘶くのを慣れた手つきでなだめていた。
 冷えて固くなる手を擦り合わせる事でなんとか温めようとするが乾燥した手はかさかさと小さな音を立てるばかりである。吐く息が白くなり、消えゆくのを目で追ってみたりもするが余計に寒さが染み入るようでやめた。外套のあわせを直し、は焦りを落ち着かせようと深呼吸をする。
 一度、二度。ついでに三度。何をしているんだという様子見だろう、ちらりとリヴァイがこちらに目をくれた。リヴァイは時間を潰すのは上手そうだとは理由もなく思う。
 いつ信号弾が見えても大丈夫であるように身じろぎを繰り返していると、鞘を足に固定するベルトのズレが気になった。ズボンとベルトの間に指を入れてずり上げようとするが、冷えて固くなった革と乾燥した指の相性は悪かった。
「い、」
 ぴりりとした痛みに慌てて手を引くと、丁度人指し指の関節部分に赤い亀裂。すぐにぷくりと血の玉が浮かんだ。あちゃあ、と悪ふざけの仕掛けが露見してしまった子供のように顔をくしゃりと歪める。ズボンで拭くには血液は目立ちすぎる。血の鉄臭い味は好きではないが傷口を口に含み血の玉を舐め取った。
 先ほどの短い声に反応したのか、リヴァイが馬を操りすぐ隣に近寄ってきた。の様子を見てすぐに理解したようだった。
「切ったのか」
 有無を言わさぬ視線に、指をくわえたままは頷く。作戦開始も――おそらく、だが――間近に迫っているというのに、荷物を開けて道具を取り出すという手間をかけたくはなかった。はこのまま自然と血が止まるのを待とうとしていたが、リヴァイは自身の指を口にくわえたままのをいつもの三白眼でじいと見つめた後、手綱を持つ片手を離しなにやら外套の下でもぞもぞとしている。それが物を探している動きをしていたのだと分かったのは、リヴァイが真白いハンカチを取り出したからだ。常にハンカチを携帯していることは潔癖というリヴァイならではである。
「くわえてないで指を見せろ」
 貸せと手を差し出される。その時点で上司が何をしようとしているのかは十分予測が付いた。わざわざ手当をして貰うほどでもないと判断して結構です、と切っていない手で示すがリヴァイはその腕をはね除けくわえている方の腕を掴む。
「へ、兵長に掴まれた所の方が痛いです、いやーあの、いやだからいいですって!」
 結構です遠慮しますと喚くの腕を馬上ながら押さえつけ、ハンカチで未だ血の滲む傷を押さえる。無理矢理引っ張られているため、リヴァイ側へ身を乗り出すような体勢が苦しい。
「小さい傷だからってなめるんじゃねぇよ」
 咎める声に厳しさはないが、わざわざ上司手ずから手当をされることには羞恥を覚える。ハンカチはが思っていたよりも薄い布で出来ており、ぐるりと指を覆うように巻き付け布の端を縛られ固定された。満足したのか掴まれた腕が話され、浮いていた腰を鞍へ下ろし白い清潔そうなハンカチで縛られた指をは見下ろす。
「小さい傷をなめるなって……。私、もっと大きな怪我で何度も死にかけましたけど、ね」
 ちいさな傷に過剰なまでの手当に苦く笑みを洩らす。しかしこれではブレードのトリガーがうまく引けないだろう。森に突入した後、立体機動に移るかどうかはその場の判断とされているため今現在ではどうなるか分からない。
 人類最強と呼ばれるこの男は、口は悪いがその悪さが性格まで染みこんでいるわけではなかった。その実、分かりづらいが部下思いであるのは今の立場になってからよくよく分かっていることだ。小さな裂傷の上をなぞり、手綱を持ち直すリヴァイには羞恥を押し込んで礼を告げる。
「……ありがとう、ございました」
「気をつけろ」
 はいと返事をしたとき、森の向こうから軽い破裂音が聞こえる。その音に空を見上げれば、待ち望んでいた信号弾が上空に向かって煙の尾を引きながら尚も上昇していた。
「いくぞ」
 リヴァイはそれを見るや否やぱっと馬の向きを変え愛馬の腹を蹴る。馬の操り方も上手いリヴァイは、うかうかしていると何馬身も離されてしまう。今し方巻かれたハンカチのせいで手綱が少しだけ握りづらいという弊害があったが、は構わず馬を駆けさせた。
(ハンカチは、あとで、洗って返そう!)


up14/2/8