ひとりじゃ駄目だった

 炎天下の砂の上、じりじりと焼け付くような日差しは絶え間なく降り注ぐ。とウルフウッド一行は次の街へ移動中だ。しかしバイクを買うにも所持金が足りず、街を行き来するバスもしばらくは来ないだろうと言われ仕方なく徒歩で向かっている最中だった。
 ああ、いい加減ベッドで寝たい。ごほ、と咳き込みながらは思う。まったく、かつかつなのはどっちだよ。いや、お互い様か……。
 右やや前方にウルフウッドの姿がある。さっきから黙々と唯ひたすら砂地を踏みしめている。お互い無口なのは無駄に体力を消費させないように、とのささやかな抵抗だ。
 先ほどからようやく街の影が見え、それは中指ほどに大きくなっていた。

 背中のパニッシャーを担ぎ直し大きく息を吐く。どうも先ほどからフラフラしてだるい。いや、だるかったのは今日の朝からか。宿を取ったら十分休養を入れなければ。我慢と無理のしすぎはよくない。きっとあのきつすぎる太陽の所為だろう。
 しかし先ほどは微かだったフラフラが、一瞬にしてに大きなものになる。立ちくらみの時のように目の前が真っ暗になる。あれっ。そんな言葉を呟きながら、は砂に顔面から倒れ込んだ。


 消毒液の匂いがする。これはあまり好きな匂いではない。この身体になってから一番最初に嗅いだのもこの匂いだった。あの時は目眩がするほどきつかったが、今はそれほどでもない。
 が意識を覚醒させ薄く目を開けると、そこは砂でもなくひたすら青い空でもなく白い天井だった。視界に点滴の袋が入る。その袋から下がる管を頭を動かしながら辿っていくと自分の右腕だった。
「あれ」
 今自分は点滴を打たれている。なんでだ? 意識が途絶えたのは確か街の結構離れたところだったはず。
「起きたか」
 左からウルフウッドの声が聞こえる。今度はそちらへ顔を向けると、椅子に座り腕を組んでこっちを見ていた。いや、睨んでいた。
「……なあ、なんで俺、こんな所に」
 現状が把握できていないが呼吸も苦しげに言う。あれ、なんで苦しいんだ俺。それにウルフウッドは一気に眉間の皺を増やした。
「なんで我慢しとったんや」
 怒鳴るのを押さえている声色だった。
「なにを?」
「オドレぶっ倒れたやろうが! 必死こいて病院連れてけば医者はただの風邪と貧血や言うし、体調悪いならはよ言わんか!」
 風邪? はぼんやりと熱っぽい頭で繰り返した。風邪。ああそういえば、数日前から咳が……だるかったのも同じ頃からか。それをウルフウッドへ言うと、まるっきり風邪の諸症状やないか! と再び怒鳴られた。
「風邪だとは、思わなかった」
「ったく……。昼と夜の温度差が激しいとはいえ、体調管理はきちんとせえへんとあかんで」
 先ほどとは打って変わって真剣な表情でずいと身を乗り出してくる。分かってるよ、と返事をする代わりに小さく左手を挙げた。

 身体がだるいのは39度の熱があるかららしい。よくもまあ、こんな環境で風邪なんかひくなとまるで他人事のようには思う。風邪と言えば、まだ記憶にある小さな頃に今と同じように40度近い熱が出たことがあった。あの時はもう死んでしまうんじゃないかと思っていたものだが、今はそんなに辛くない。
 ぽつぽつと話していると、点滴が終わった。は身体を起こすと、おもむろに点滴の針を抜く。
「何しとる」
「いや、ほら所持金少ないし。休むんだったら。安宿でも出来るだろ」
 針を引き抜いた所から血の玉が浮き出る。そのうち止まるだろうからと傷口を押さえて止血の代わりにする。
「そんなんおまえが心配せんでもええって。寝てろ」
「これからの事を考えてみろ。さあどーなる?」
 ぐ、とウルフウッドが言葉に詰まった。ベッドから足を下ろす。薄っぺらいスリッパに足を突っ込み立ち上がった。フラフラはしなかったが、ふわふわした。
「そんなことより今は寝とけちうんや!」
 勢いよく立ち上がったウルフウッドはベッドの反対側まで歩いていくとの腕を掴む。力尽くでベッドに寝かせようとするが、簡単にいく相手ではなかった。掴まれた手を振り払おうと腕を振るが、それ以上の力で押さえつけられる。腹筋やら背筋やら、とにかくあちこちの筋肉を総動員してベッドに倒れ込むまいとする。それに小さな苛立ちを感じたのか、ウルフウッドはの肩をつかみどうにかしてでもベッドに寝かせようとしている。
 こなくそっ。負けじともウルフウッドの肩を掴む。直立では力が入りにくいため足をずり、と後ろへずらす。
 二人の力は拮抗していた。だがこの状態が長く続けば不利なのはどちらかな明かだ。はどうやってこの状況から抜け出すかを考えていた。けれども上手く考えがまとまらない。くそっ、熱の所為か?

 ガチャッ。遠慮も無しに病室のドアが開かれ、金属製のカートを押す看護婦と白い白衣を着た医者らしき男が入ってきた。心の目で見れば視線の間にバチバチと火花を散らしているかもしれない二人はそれに気がつかない。低く小さく唸りながら力の張り合いをしている。それを見た看護婦は驚きに目を見張り、そして空になった点滴の袋の先がだらりと下がっていることに気がつくと眉間に皺を寄せた。その隣で男がため息をついた。バインダーを持ち直し二人に近づく。
 バインダーを持つ手を大きく振り上げ、右から左に振り抜いた。ががんっ。鈍い音が二つ。その音は間違いなく二人の頭にバインダーが当たった音だ。二人は掴み合っていたことも一瞬忘れウルフウッドは男になにすんねん! と怒鳴り、は先ほどの衝撃が頭に響いているのだろう、辛そうに目を閉じていた。
「静かにしなさい」
 バインダーを脇へ戻し、男が言う。
「静かにしとるやないけ!」
「ニコ、うるさい……響く」
 やる気が失せてしまった。は手を離しベッドに座り込む。すると看護婦が寄ってきた。手には新しい点滴の袋がある。ウルフウッドは渋りながら横へ立ち位置をずらした。
「なんで抜いたんですか」
「いや、終わってたから……」
「勝手に抜かないでくださいね。あと勝手にベッドから降りないでください」
 慣れた手つきで点滴の用意をする看護婦をぼうと眺めた。良いじゃないか別に。けれど疲れた。スリッパを脱いでベッドに足を上げる。
「なんでこんなことに?」
 男がに尋ねる。
「もういいと思った、ので」
 シーツを捲りながら返すと、はあ、と呆れの感情を含んだため息をついた。
「まだ熱は下がっていないだろう。君が辛いと思っていなくても、身体はちゃんとダメージを受けてるんだ。大人しくしておきなさい。じゃないと治るものも治らない」
 毅然とした態度で男は言う。
「はい……」
 もし彼が犬だったならきっと耳が垂れてしまっているのだろう。ベッドに横になると、準備の終わった看護婦が点滴の針片手にの右腕を取った。

 耳を澄ませれば、液体が落ちる微かな音が聞こえる。目を開けていれば自然と視界に入る、白い天井の染みを数えるのにも飽きてしまった。はぶり返してきた――いや、再確認した熱で弱っていた。
 熱い。それに先ほどから睡魔が亀のような歩みで近づいてきている。もしかしたら、再び暴れられるのを恐れた医者側が睡眠薬でも点滴に混ぜたのかもしれないとは思う。そういえば後から小さな袋を追加されていた。
 ウルフウッドは再び椅子に座り何をするでもなく腕を組んでいる。は宿は取ったのか、一晩中そこにいるつもりか等暇を潰すために声を掛けようかと思っていたが、微妙な眠気が邪魔をする。別に戦闘中でもないのだから、寝ていけないわけでもない。もう寝てしまおう。次起きたときには全快になっているはずだ!
 が目を閉じる。睡魔のその黒い手が、彼の目を覆った。


 あつい。は無意識でシーツを蹴った。右腕はなるべく動かさないようにする。針があっちこっちに動けば地味にいたいから。
 あつい。冷たいものが額を撫でていった。


 ふと目が覚めると、やはりそこは白い天井だった。僅かに閉めきられていなかったカーテンから白い朝の日差しが差し込んでいる。
 身体を起こすと黒いもの――いや、ウルフウッドがの足を下敷きにして寝息を立てていた。その光景に眉をひそめる。通りで寝返りがうちにくかったわけだ。右腕に視線をやれば、針があったところには小さな四角い絆創膏が貼ってあった。べりっとそれを剥がすと、案の定傷はもう癒えている。
 がごそごそとしているのにウルフウッドは起きる気配が全くない。おいおい、そんなんでいいのかよとこころの中で呟く。
 あんまりにも気持ちよく寝られていると、ちょっかいを出したくなるのが人の性。は俯せでシーツ越しに自分の足へ顔を埋めるウルフウッドの鼻へ手を伸ばし、つまむ。空気が出入りする隙間無くきっちりと。口は隠れているので鼻呼吸だけだろう。鼻をつまんで十数秒が経った。心なしかウルフウッドの肩が震えている気がする。次の瞬間、鼻をつまんだ手を払われた。
「だああぁあ! 何すんねんワイを殺す気かっ!」
 勢いよく身体を起こし、ぜいぜいと荒く息をつくウルフウッドはぎっとを睨んだ。
「オドレか!」
「ああ、うん」
 殺気立つ言葉に、あっさりと返す。
「何すんねん!」
「いやー、足の上で気持ちよさそーに寝られてたから、ちょっと」
「ほーお。人が気持ちよく寝てるとちょっかい出したくなるんか、ほー」
「あ、じゃあこれからそうする」
「なんでや!」
 びし! とツッコミを入れてからウルフウッドははたと身体を止めた。それを不思議に思いちいさく首を傾げる。何やってんだ? ウルフウッドがの額に手を当てる。熱くない。至って普通、平熱だ。手を下ろすと、ウルフウッドは安堵の息をついた。
「もう大丈夫みたいやな」
 当の本人は、そう言えばと自らの額に手を当てた。
「ま、おかげさんで」
 は口元を緩めて笑ってみせた。


 あの熱とだるさは何処へやら、じっくりと眠ることが出来逆に快調な様子ではウルフウッドを連れて病院を出た。払うものも払い、出る直前にだけが看護婦に呼び止められそっと耳打ちされた。熱で唸ってる貴方を甲斐甲斐しく看病していたのは彼ですよ、と。そんなわざわざ。思わず口から出そうになった言葉だが、押さえて看護婦に頭を下げていった。
 いつも背負っているはずのパニッシャーだったが、昨日はほとんど触れていなかった。短い間だったはずなのに背中の重みがやけに懐かしい。隣を歩くウルフウッドに目がいく。自然と頭は看護婦から聞いた言葉を思い出していた。夜中の看病はは兄として? その先を考えようとしてやめた。
 小さく俯く。指先を伸ばし、ウルフウッドの左手に触れる。それに気付いたウルフウッドはに視線を移した。
「聞いた。夜、ありがと」
 呟くように発せられた言葉はしっかりとウルフウッドの耳に入っていた。ちいさく目を驚きに見張ると、しかしすぐに顔は破顔した。
「かまへんかまへん」
 の手を握りぶんぶんと前後に振る。顔を上げたははにかみながら、そっと手を握り返した。


up08/04/22


このサイトで一番らぶらぶしてるかもしれない、こいつら。