雨の匂いがする。
もぞり、とはベッドから上半身を起こした。前髪を掻き上げカーテンが開けっ放しの窓を見れば、いくつもの水滴がガラスに張り付いていた。ひやりと肌に触れる冷たい空気。
袖無しで寝るんじゃなかったと後悔しながら冷たい腕を擦る。すぐ側の椅子に掛けてあったシャツを取り、羽織る。素足のままベッドから降りると窓に近づいた。
窓から見える外の景色はどことなく寂しげであった。いつもの青い空は姿を隠し、眼下の街に人々の姿は見えない。
そんな灰色く沈んだ風景に鮮やかな赤を見つけ、そちらに視線を向ける。長い裾をひらめかせながらの居る宿へ駆けていた。
何やってるんだあいつは。呆れたように一つ息を吐き、羽織っていたシャツに袖を通した。
身支度を終えて宿の一階に下りると、何列か並べられたテーブルと椅子が真っ先に目に入る。視界の右端にヴァッシュの姿があった。彼へと近寄って、正面の椅子に座る。
「やあ、おはよう」
「はよ」
どうやら彼は朝っぱらからドーナッツを食べていたらしい。既に空になったポップな柄の箱が目の前に置かれていた。
「今日は雨だから進めそうにないなあ」
肘を突いて外を見るヴァッシュ。つられたようにも同じ方向へ顔を向けた。明らかに小降りではない勢いだ。
「そうだな……」
ふ、と目を細める。ぺろりと指に突いた舐め取るヴァッシュを見て、そういえばと思い出す。
「朝っぱらから、しかも雨の中外出てたのはこれのため?」
これ、と指先で指し示しながら尋ねる。どことなく憂鬱そうな顔が柔らかな笑顔を浮かべた。
「そうそう。ここらへんで一番おいしいところなんだけどさ、昨日は夕方だったからもう閉まってたんだよね〜。でもすぐに売り切れそうだから行ってきた訳。いやあ、濡れた甲斐があったよ!」
だらしなくえへへと笑う男を見ていると、幸せオーラでも出ているのかこちらも笑顔になりそうになる。実際、小さく口元が緩んでしまいそうになった。
「朝、食べた?」
「いや、まだ」
「じゃあ頼んで来なよ」
空になった箱を折りたたみながらヴァッシュが言う。そだなとは立ち上がったが、リヴィオは? と尋ねる。
「リヴィオ? 見てないよ?」
「まさかまだ寝てるとかな……」
「あはは、そんな馬鹿なー」
「だよなー」
じゃ、と片手を上げて自身の朝食を取りに行く。ヴァッシュが片手を上げて振り返していた。
厚めでこんがり焼けたトースト、スクランブルエッグにソーセージが数本、葉野菜のサラダと飲み物は薄い珈琲。食器をトレーに乗せ片手で持ちヴァッシュの所へ戻る。
雨は止むことを知らず降り続いている。きっと今日はずっと降り続くのだろう。
こんな天気の日は決まったようにラジオの調子が悪く、軽快なリズムを刻んでいるかと思いきや突然荒いノイズが混じる。その度に、音楽に耳を傾けていた男達は眉を顰めて外に眼を向けるのだ。
テーブルにトレーを置いて再び座る。真っ先にヴァッシュが食器をのぞき込んできた。
「前から思ってたんだけどさ、キミって意外と食べないよね」
「……、そう?」
珈琲の入ったカップを取り、一口。ヴァッシュの率直な疑問には少しばかり戸惑う。
「そうそう。体格良いんだからさ、もっと食べるかと思ったのに」
「俺は燃費がいいんだよ」
フォークでソーセージを刺す。
「ふーん……」
ヴァッシュは肘を突き、じいとを見ている。どうやら観察モードに入ったらしい。
ソーセージを一口囓るが、視線が邪魔をしてなかなか気恥ずかしい。
「ヴァッシュ、何見てんだよ」
「んー、観察日記」
「そんなん付けるなって」
集る虫を払うような動作でしっしと手を振る。仕方ないなあ、とヴァッシュは頬杖を止める。は再びソーセージを囓った。
トーストまで綺麗に平らげ、珈琲を流し込んでいるとラジオが突如雑音を紡ぎ出した。
「雨の日は嫌になるねえ」
雑音の合間に、三拍子のワルツが途切れ途切れに聞こえる。やがてワルツがまともに紡ぎ出されたかと思いきや、一度大きくノイズを吐き出された。それきり雑音は聞こえなくなる。
確かに、雨の日は誰をも憂鬱にさせ物思いに耽させる効果を持っていると思う。
外で活動する者は活動の休止をせざるを得ない。その持て余した時間と雨のじめじめとした空気が、その効果を促進させてでもいるのだろうか。
「……そういや、ほんとリヴィオ降りてこないな」
「あ、確かに」
「まあいいや、上がるついでに見てくる」
「本当かい? よろしく頼むよ」
トレーを持ち、返却場所へと戻した後二階に上がっていく。
の右隣の部屋がリヴィオの部屋だった。ノックをする。……返事も何も無い。中にいるというのは分かるのだが、反応も何も無いことには眉を顰めた。
「入るぞ、リヴィオ」
ドアのノブを回せば鍵はかかっていなかった。ぎぃ、とドアが軋む音。
真正面にあるベッドに腰を掛け、膝に肘を突いた姿でリヴィオが居た。
「リヴィオ」
名前を呼ぶが反応がない。何も言わずに部屋に入り後ろ手でドアを閉めた。こつ、こつと部屋にの靴音が小さく響いた。
はリヴィオの前で膝を付き、肩に手を置いた。
「リヴィオ」
そしてもう一度名前を呼ぶ。
そこでようやく気がついたとでも言うかのように顔を上げた。揺らぐリヴィオの瞳がを見る。
「、さん」
「どした。もう俺らは朝飯済んだぞ?」
「すみません……考え事を」
は立ち上がると、近くにあった椅子を引き寄せ座った。窓にはやはり、水滴が幾つもついている。つ、と滴るものもある。
考え事。きっとそれは、間違いなく"彼"について。
「雨の日は久しぶりだな。ここ数年、降ってなかった」
「そう、ですね」
雨の日。雨の日。
憂鬱で、気持ちが沈んで、どうしようもなくなる日。
「どうするんだっけなあ……」
天井をが見上げる。何の変哲もない、薄汚れた白い天井。
「こんな時。どうするんだっけな……なあ、リヴィオ」
手を組んだリヴィオは、その手に視線を落とす。
「さあ……忘れてしまいました」
「はは、俺もだ」
は小さく肩をすくめた。
「ヴァッシュが心配してた。下りないのか?」
沈黙が下りようとしていた空気を払うように、は尚もリヴィオに声を掛ける。ようやく彼は膝から肘を離した。
「下りますよ。けど、もう少しじっとしていたい気分なんです」
小さくに笑ってみせるが、それは無理矢理作った笑顔だった。その表情を見ては胸が苦しくなるのを感じる。
きっと彼――ヴァッシュならもっとマシな気持ちの収め方を知っているだろうが、生憎と彼らはそういう、自分を楽にする方法をあまり多く知らなかった。リヴィオは唯、波が過ぎるまでじっと待って居るのだ。
俺達が抱えてるのは同じ大きさのはずなんだけどな。は目を細めた。
生半可な慰めでは苛立つ。しかし十分すぎても、どう接して良いのか分からない。
は、今の状態のリヴィオにどう接すればいいのかが分からなかった。
大切な人。
大切だった人。
忘れるはずもない。けれど日常の中では、意識しなければ思考の外に出て行ってしまう。
――ああ。そうか。
は小さな、彼なりの結論を見つけ出した。それを頼りに、リヴィオに口を開く。
「俺さ、今まで雨は嫌いだったけど、今はそうでもないな」
不思議そうにリヴィオがの目を見た。楽しそうに少しだけ口元を緩めながらは続ける。
「だって、雨が降ってる間は、ずっとあいつのこと……ニコラスのこと、考えていられる」
すいとは窓に視線を走らせる。鉛色の空が見えた。ああ、きっと夜まで降り続くな。
「こんな時どうやって過ごすかは忘れたけどさ、普段の生活の中であんまり考えてないからさ……こういう時ぐらいは目一杯考えてやろうかなーとか、はは、言ってみると変だな、これ」
途中で恥ずかしさに苛まれ、最後は誤魔化してしまった。そろりとリヴィオを見ると、丁度立ち上がろうとしているときだった。
リヴィオは真っ直ぐに向かって歩いてきた。頭上の顔を見上げていると、彼は背を屈めての背中に腕を回した。
「う、り、リヴィオ?」
「ありがとうございます。少し、楽になりました」
すぐに腕は放された。いつもの表情に戻ったリヴィオがの正面に立っている。
「そ、そう。あんなんで少しは軽くなったんなら、良かったよ」
は立ち上がりドアに歩いていく。いつものリヴィオに戻ったのだったなら、じきに下へ行くはずだ。
「さん」
ドアノブに手を掛けたところで、呼び止められた。振り返る。
「ん?」
「さんって、その、やっぱり、好きだったんですか?」
が、リヴィオの顔を見たまま固まった。固まったかと思うと耳から徐々に赤くなり、すぐに顔までゆでだこのように染まった。
「あ、そ、その、すいません俺やっぱり変なこと聞きましたね! ごめんなさい、忘れてくださいっ」
慌てて両手をぶんぶん振りながら撤回しようとするリヴィオだったが、は口元を手で隠したまま視線を彷徨わせていた。
怒鳴り返してくるかと思っていたが、反応が無い為恐る恐る顔をのぞき込む。
「さん……?」
「…………す、好き、だよ」
顔を真っ赤にして呟くに、リヴィオは感じたままの感想を述べた。
「さん……それ、可愛い」
「るっさい!!」
ごきん、と渾身の右ストレートがリヴィオの顎にクリティカルヒットした。
部屋を出たふたりは1階へ通じる階段を下り始めたが、の後ろを歩くリヴィオは顎をさすりながら怒りオーラの立ち上る背中を不服そうに眺めていた。
「なんで殴るんですか……」
「すぐ治るだろ」
明らかに言葉に刺がある。
「そうですけど、痛いじゃないですか」
「いつかは腕までもげた奴が何を言う」
うっ。言葉に詰まってしまう。数段下りた後、リヴィオはめげずに言葉を投げかける。
「で、でもそういうの、俺、いいなと思いますよ」
の足は止まらない。リズム良く階段を下りていく。踊り場を抜け、もう1階がすぐそこと言うところで、ぼそりとが呟いた。
「……そうかい」
最後の階段を下りる。ヴァッシュは先ほどと同じ場所に座っていた。下りてきたふたりを認めると、人目も憚らず手を大きく振って見せた。
「ずいぶん遅かったね。体調でも悪かったかい? リヴィオ」
綺麗に畳まれた紙の箱を脇へ寄せながら、ヴァッシュは椅子を引くリヴィオに尋ねた。
「いえ、そういう訳ではないんですが……まあ、いろいろと」
曖昧な答えだったが、ヴァッシュは柔らかく口元を緩めた。
「そ。まあ、ともかく朝飯まだだろ? 取って来なよ」
「はい」
頷いてからカウンターへ歩いていく彼を見送る。ぐりんと首を回し、先ほどとは打って変わって何か企んでいるような笑みになりを見る。
「な、なんだよヴァッシュ」
「えへへー。なんでもないよーん」
「うっわ嘘くさっ。なんだよ、言えよ」
「やーだね。てか、顔赤いけどどしたの?」
「リヴィオの野郎が変なこと言うから……」
「ほーん?」
「見るな!」
「無理!」
大人げなくはしゃぐふたりの声をかき消すかのように、雨は勢いを激しくしていた。ラジオがノイズ混じりに女性の柔らかな声を紡ぎ出す。この雨は明日の朝方までにはあがるでしょう……。
up08/07/06
やっぱりリヴィオはヘタレ属性か。