淀んだ澱 1


 宿で取った部屋は大通り側の二階で、随分と見通しが良い。ふと気が向いて、は自身のハンドガンを磨いていた。人々のざわめきを聞きながらの作業は思いの外良く進んだ。
 と言うのも、次の街に行く手段が途絶えてしまったからだ。街と街を繋ぐバスも暫くやってくる予定もなく、サンドスチームも同じく。ウルフウッドが乗り回していたバイクも、つい先日いざこざに巻き込まれジャンクにされてしまった。
 ベッドの上にウエスを広げ、さらにその上に部品を広げる。自らの手によって輝きを取り戻していく様はとても楽しかった。磨き終わった部品をベッド上のウエスに戻し、次の部品にと伸ばした手が空で止まった。
 磨く様子をちらちらと横目で見ていたウルフウッドが何事かと静かに腰を上げる。

「どないした?」
 声をかけられ、は小さく苦笑いしながら顔を上げた。
「いや、ちょっとデジャヴュ。驚いた」
「ほー」
 は部品を取り上げ、その表面をクロスで擦っていく。何事もなかったのように再開される作業に、ウルフウッドも気に留めず煙草をくわえ直した。
 このところこんな真面目に磨いたことなどない。それなのにふと、つい先日も同じようなことをした気がしたのだ。それがデジャヴュ、既視感だと気づくのに時間はかからなかった。少し前にも既視感を覚えたのは記憶に新しい。

 磨き上げられた愛銃を笑顔でホルダーに戻すを見、ウルフウッドは組んでいた足を下ろした。
「ほな、外、食いにいくか?」
「行く」
 黒のロングコートを引っつかみ立ち上がる。そのコートに袖を通しながらどこに行こうかと考えた。旨いところなら何でもいい。


 飲食店を探している最中、突然ウルフウッドが足を止めた。いいところでも見つけたのかと思いも足を止めたが、そうではなく青いエプロンをした女性に腕を掴まれ否応なく足を止めていた。
「兄さん達、腹空いてるならウチに来なよ!」
「ワイら腹空いとんのよく分かったのー」
 ほらほらほら、と遠慮無しに掴んだウルフウッドを引き摺っていく。わはは、とやけに楽しそうに笑ったウルフウッドがの手を掴んだため、ずるずるとすぐ側の店へと入ることになった。

 こじんまりとした店内で、昼食時と言うこともあり随分と賑わっていた。 一先ずふたりは隅のテーブル席に着く。
「あ、すまんな。ここでよかったか?」
「事後報告されても困る」
「ははは、すまんすまん。ねーちゃんがあんまりひっぱるもんでなー」
 すぐに店内へ連れ込んだ女性がメニューを持って現れた。
「さっきはごめんなさいね。でも来てくれたからには満足して帰ってもらいますよ!」
 ぱっと笑った顔はとても明るく、人々に元気を分け与えるかのようだ。その笑顔に、ふとが目を瞬かせる。女性をじいっと見た後、顔を反らし目を覆う。その動作に女性が気に留めることはなく、ふたりの目の前にメニューを広げた。

「おすすめはこれとこれなんですけど、もちろん他のもおすすめですよ!」
 顔を上げないをウルフウッドはちらりと視線を向けるが、すぐにメニューに戻す。だがメニューを見ないに気づいたのか、女性が首を傾げ声の調子を落とす。
「そちらの方具合が悪いんですかね?」
「あ、ああ、ちょい外歩きすぎたかもしれんな。まあ休んどけば大丈夫や。すまんの。そんじゃあおすすめってのをひとつずつ!」
 はあい、と女性は再び笑顔で頭を下げキッチンへと駆けていく。

 出された水を飲みつつ、ウルフウッドは俯いたの肩を揺さぶる。
「おい、急にどないしたんやお前」
 おかしいで、と続けようとするが、ぼそりとが呟き口を閉じる。俯いたままでぼそぼそと呟かれる言葉は店内のざわめきにかき消されそうだった。
「……いよな」
「は?」
「ここ、来たこと無いよな。あの女の人も会ったことない、よな」
「少なくともワイはこの町に来るのも初めてや。がどうかは知らんが」
 が顔を上げる。表情が曇り、どことなく青ざめているような気がした。
「俺も、初めて。――わり、なんでもない」
 自らの分のグラスを呷り、水を飲み干す。

「デジャヴュ、か?」
 ウルフウッドは何気なく賑やかな店内を見回しながら尋ねる。返事はなく、はただ頷いた。
「そういや出る前も起きとったな」
「……なんか最近、多くて」
 びっくりすんだよなと前髪を触りながら再びが呟く。
 記憶が混乱するのだ。この店はおろかこの街自体来たことがないというのに、既視感がそれをひっくり返す。以前来たことがあるのではないか、あの女性とも会ったことがあるのではないかと。既視感であると分かっていても、引き摺られてしまいそうになる。
「疲れてんのかな……」
 重いため息をつく。ウルフウッドがの髪をわしわしとかき混ぜた。は嫌がる素振りも見せず、されるがままになっている。空になった透明のグラスを手持ち無沙汰に弄っている様子が子供のようだ。
「かもしれんなあ。ま、時間はたーっぷりあるんや。今は食って休み」
 にかりと笑うウルフウッドに、もつられて小さく笑う。


 どさりとは宿のベッドに倒れ込む。あれから料理が出てきた時にも既視感を覚え、頭を痛めながらも食べきった。悩みながらの食事ではあったが、素直に料理はおいしいと感じ、視界に入る度笑顔のあの女性を少しだけ羨ましく思った。あれだけ笑えていたならきっと毎日が楽しいのだろう。
 ウルフウッドが言ったように自分はただ疲れているだけだろうか。確かに連日の砂漠越えといざこざに巻き込まれた件でストレスは少なからず溜まっているだろう。けれど今までこんなことは、なかった。
 不安とイライラとが混ざり合って、自分でも訳が分からない。

 着たままだった上着から煙草を取り出し、慣れた手つきで火を付ける。一度深く吸い込み、ため息と共にはき出した。
「コラ、寝タバコはあかんっつーとるやろ」
 すぐに後ろから声が飛んでくる。と言っても怒っている訳でもなく、咎める口調でもない。
「それは初めて聞くけど?」
「聞き流さんか!」
「疲れてんだよ……精神的に」
 仰向けになり、煙草をくわえる。天井に向かって立ち上る煙が揺らぐ。
「なんでやろな……」
「知るか」
「やっけに冷たいんちゃう?」
「かもな」
「酷いやっちゃなあ」
 ウルフウッドが苦笑する。これを吸い終わったら寝てしまおう。灰が顔に落ちかけ、慌てて身体を起こした。


 真夜中にふと目が覚めた。はベッドに横たわった姿勢のまま、そっと辺りの気配を探る。隣のベッドで大の字になっているウルフウッドは寝ているようだ。
 カーテンを閉め忘れた窓から見える月が、部屋の中に青白い光を落としていた。前髪をかき上げる。
 また明日――いや、もう日付が変わっている。今日も既視感で頭を痛めるのかと思うと憂鬱だった。
 何故何故。こんな調子ではまともに戦闘も出来ないではないか。は普段の生活に支障が出るよりも、そちらが心配だった。戦場ではコンマ1秒の油断が命取りになる。今はウルフウッドと行動を共にしているとはいえ、戦闘に入ってしまえばどうなるかなど予測も付かない。
 顔を横に向ける。目に入った自らのまだらな髪を見て、気づいた。……身体能力の向上と引き替えになった髪を見て。

(……身体に異常が?)
 ぞっとした。微かに蟠っていた眠気も消え、自分の鼓動が大きく聞こえ始める。
 もしそうならば自分は疎か町医者どころでは何も出来ない。そもそもこの身体が不調を訴えたとして、上はどうこうする気はあるのだろうか。
(落ち着け。落ち着け。必ずしもそうとは限らない!)
 そっと静かに、隣に気づかれないように深呼吸する。寝ているとはいえ油断は出来ない。眠りに入るのも早ければ、物音、気配、些細なことでも眠りから覚めるのだから。
 逸る気持ちを抑えながらが再び眠りについたときには、時計の短針が優に二回りはしていた。


 隣でごそごそと盛大な衣擦れの音がして、はほぼ条件反射で目を覚ました。閉められていないカーテンから差し込む光が眩しい。
「よお、おはようさん」
 の顔を覗き込みながらウルフウッドがひらひらと手を振った。それを目で追いそうになり、目を擦る。
「……眠」
 あれきり一度も起きていなかったというのにまだ睡眠が足りないとは。どこの成長盛りだと自らに呆れる。
「夜中に目、覚めとったやろ? それから寝られんようだったからのー」
 僅かに霞むの視界の中で、ウルフウッドがそう言いながらのベッドに腰掛け優しく見下ろす。
 ――視界がブレる。既視感。
「あんまし寝……おい大丈夫か!?」
 さっと顔色が悪くなったに、ウルフウッドが咄嗟に姿勢を低くする。は目を手で覆い隠し、浅い呼吸を繰り返している。明らかに異常状態だ。
「おい、」
「また……気持ち悪ぃ……っ!」
 気持ち悪いという言葉を、吐きそうと取ったのか、ウルフウッドが立ち上がりどこからか深い桶を持って戻ってくる。薄目でそれを見ていたは馬鹿かこの野郎、と小さく罵る。吐き気はなかった。気分が酷く悪い。
 ゆっくり身体を起こすと緩く頭が回っているような気がした。それは時間の経過と共に消えていったが、胸の中に滞るような気持ち悪さは消えなかった。

 ふ、と一息つくと、ウルフウッドが苦い顔でを見ていた。そして何かを決心したような顔で一つ頷くとベッドの上に放置されていた上着を掴み袖を通す。
、医者ん所いくで。準備しや」
 その言葉には頷かなかった。ただ気怠げな目でウルフウッドを見上げるばかり。
 確証のない確信がの中にはあった。きっとこれは身体の問題だ。身体のガタが、既視感という症状で表に出ているだけなのだと。
 反応しないに何や、とウルフウッドが声を荒げる。
「はよせんか! 医者叩き起こしに行くで!」
 側の椅子にかけてあったコートやシャツをまとめて引っつかむと、それをへ向かって放り投げる――というより、投げつけた。

 彼が苛立った理由がには分かった。体調が悪いというのに、それについて何もしようとしないからだ。前日のこともある。ウルフウッドは重症、そこまでいかずともかなり酷いということを理解しているだろう。
 膝の上に落ちた服に視線を落とす。ふっと重い瞼を閉じて、は頭を振る。
「だめだ、分からないに決まってる」
「訳のわからん事言っとらんではよ着替えんか!」
「だ、から!」
 ウルフウッドの怒声に対抗する。いつ襲い来るか分からない恐怖に怯えながらはウルフウッドを見上げ睨む。睨みながら、自分が怯えていることに気づく。そのことに嫌悪感さえ抱くが、しかし、恐ろしいのだ。だぶる視界が。

 声を荒げた事にウルフウッドは片眉を跳ね上げた。
「これは、ここらの町医者じゃきっとダメだ。本部にでも行って、それこそ……俺たちの身体を弄くり回した奴らの所に、行かないと」
「……ありえんやろ」
 身体を長期間酷使し続けた訳でもなく、損傷が激しいわけでもない。ましてや寿命というわけでもないのに? 呟かれた言葉にはそんな疑問も混ぜ込められていた。
 ウルフウッドが慣れた手つきで――けれどどこか動揺しているのだろうか、一度シガレットケースを落としかけたが、煙草をくわえ火を付ける。
「ありえん。早すぎる」
「だとは俺も思ったさ。……色々考えた。けどそれしか思い当たらない」
 見上げたウルフウッドは目を細め窓の外を見ていた。顰めた顔は時折揺らぐ。しかし確証もないにもないのだから、そうと決めつけてしまうのは早い。
 沈黙。

 一際大きく紫煙がはき出される。
「あー、くそっ」
 ウルフウッドが吐き捨て、がしがしと頭をかき回す。灰皿に煙草を押しつけ、を見る。黒い瞳が揺れていた。彼自身もどうしていいか分からないのだろう。
「……とりあえず、行くで、医者んトコは。そんで診て貰え。……それからや」
 は頷いた。
「分かった」
 ごめん。心の中で、意味も無く謝った。


up09/08/07

タイトルお借りしました。 橙の庭

病んでいく。