落ちるばかり

 晴れて<凛々の明星>に迎え入れられてからも世界はめぐるましく変わっていった。
 各地のエアルクレーネが変調をきたし、ユニオンのドン・ホワイトホースが死に、帝国とギルドが歩み寄ろうとしたかに見えた。それぞれの出来事には複雑に絡み合った事情と狡猾な大人達の策略が裏に秘められている。世界はいつも、ほんの一握りの人間によって左右されるのだ。

 バウルが抱えるフィエルティア号から見下ろす世界は美しかった。暇さえあればフィエルティア号の甲板から流れる景色を見ていた。天気が良ければそれこそ地平線の彼方まで見渡すことも出来た。海と空が繋がるという、本の描写を想像するしかなかった風景を本当に見ることが出来るとは思ってもおらず、目にしたときには感動に打ち震えたほどだ。
 しかし見目だけがすべてではないと俺は幼少の経験から知っていたし、再び結界の外を旅するようになっても感じていた。
 殻に隠された真実を知り、それを正そうとすることは容易なことではない。(だからこそフレンがやろうとしていることは並大抵のことではないのだ。けれど強かな彼のこと、信念を曲げるだなんてしようとはしないし確実に前へ進んでいる。)
 ――時々底知れぬ暗さと過去への追憶を滲ませた顔でぽつりぽつりと溢す姿は彼もまた、変動する世界の犠牲者なのだと思っていた。いつだったか雨の日に帚星にやってきて時間を潰していた時など、窓の外を眺めている目は虚ろではなかったか? その理由が、今なら分かるような気がした。

 誰もがなぜと思っただろう。
 裏切りの発覚、本当の正体、すこしだけ滲み出た本音。俺たちは最期を見ることなく、作為的に果てようとしている神殿を駆け抜けた。砂埃がきつく口の中がじゃりつくがそんなことは構っていられない。走らなければ。走らなければいけなかった。
 脳裏には感情の見えない顔があった。いつもは無造作に縛り上げられていた髪は下ろされ片目をかくし、一層顔は伺えない。エステルを追って来ると分かっていたのだから、俺たちと対峙するだろうということは簡単に想像が付く。あの男――レイヴンは、何を思ってユーリにその身を裂かせたのか。そうすることでまた彼に重荷を背負わせることを知りながら、殺されることを望んだのだろうか。
 死に場所を探していたとも口にしていたが、その場所に立ち会うことになるこちらの都合も考えて欲しいと見当違いな怒りが湧いてくる。
 あれこれ考えても、すべて臆測の域を出ない想像でしかないのだ。けれど最後は、己の身に埋め込まれた禍々しい力をもってカロルを助けた。血の滴る顔にそっと浮かんだ笑みはなんの感情を含んでいたのだろうか。必死になって足を動かしながらあの表情を思い出そうとするが、上手くいかない。それでいいのかとぶん殴ってやりたかった。
 いつも損な役回りを引き受けてしまうユーリの胸中は計り知れない。けれど先頭を走る俺は後ろを振り返る事が出来なかった。



 つんと袖を引っ張られて顔を向ければ、ユーリが(色々なものを押し込めた由の)不機嫌そうな顔で隣を走っていた。
、わりぃが後ろでカロル引っ張ってやってくれ」
 潜めた声は背後の仲間達を気遣ってのことだろう。扉の前で一旦止まった足を再び動かし始めたわけだが、走れば走るだけレイヴンからは遠くなっていく。まるでそれが重しになって段々と胸に溜まっていくようにパーティー内には暗鬱とした空気が蔓延っていた。
 <凛々の明星>の幼きボスであるカロルはレイヴンに殊更胸を痛めている。最後尾を走り続けている彼は、ともすれば足元に転がる岩に蹴躓いてしまいそうだ。
「分かった、先頭は頼む」
「ああ」
 短いやりとりを交わして俺は走る速度を落としてカロルの隣に並ぶが、途中ジュディスの意味深な視線を受けてしまった。
 足元ばかりに視線を落としながら(それでも俺たちは、未だ出口に向かって走っている)足を動かすカロルは見るからに「今触れて欲しくないオーラ」を醸し出していた。先頭では、ユーリとリタが行く先の指示を出している。
「カロル、顔上げなって」
 ずっこけて瓦礫に飲まれたいならいいけど、と付け加えればばっと顔を上げた。その顔に涙は無い。無いが、歯を食いしばり必死の形相だ。
 無理もないと思う。とはいえいつまでも引き摺っているのは、今後待ち受けているだろう厳しい場面で隙となる可能性もあれば精神上も良くない。悼むなという訳では無い。今、何をすべきか。それを考えて行動しなくてはいけないのだ、俺たちは。
「エステルを託された。俺たちが行かなきゃ、だめだ」
 こういうときに限って気の利いた言葉は浮かばない。まだ小さい背中に手を当てて、ぐっと押してやる。
「走れよ、死ぬ気で!」
 ここで死んだら意味がないのだ。意味が無くなってしまうのだ。
「……うん!」
 言葉が足りなくて悪いと心の中でそっと謝罪をする。カロルはいくらか表情は和らぎ(けれど辛そうな顔はそのままだ)力強く頷く。背を押した勢いで小さな身体はぱっと速度をあげ先頭まで行ってしまった。

 背後には未だ、石が崩れる音が響く。あと少しで神殿から脱出することができる。
 それぞれの胸にいろんな感情が渦巻いていた。しかし俺は、アレクセイの所行許すまじと怒ったパティのお陰で幾らか冷静を保つことが出来ていた。皮肉な話だ、激高するのを見て俺はああなってはいけない、冷静な判断をと己に言い聞かせたのだ。それが年長者の役割であるだろうと。
 走れば走るほどに地下は遠ざかる。言葉の真意を問いただしたかった。けれどきっと、既に全ては奥底に埋葬されてしまったのだろう。もう俺たちの手の届かない場所で。

 バクティオン崩落


up14/4/12
瓦礫に埋もれてしまった男へ。