がんばりましょう
ふと、机(と言っても、メインのパソコンが置いてあるやつだ)に向かっていたマスターが渋い顔をしている事に気付いた。食卓テーブルを拭いていた布巾をざっと洗ってから畳んで定位置に。手の水気を拭ってから、マスターの隣に立った。
「どうしたんですかマスター、スパムサイトにでも引っかかりましたか?」
「冗談言うな馬鹿」
冗談だと分かっていつつも、実際の事を想像したのか案外真剣な顔で返された。いざというときのためにセキュリティはしっかりしておきましょうね。
ん、とディスプレイを指さされ視線を向ける。新しい仕組みについての記事のようだった。ページスクロールを急かしながら読み進んでいく。全て読み終わると、その記事の内容に何とも言えない気分になってしまった。
「あー」
思わず間延びした声をあげてしまう。なるほど。マスターが嫌な顔をしそうな記事だった。
別に悪いことがかかれているわけではなかった。新しい仕組みができあがり、それについての記事だ。そういったページは山ほど在れど、このページにいきついた訳は少なからずマスター自身に関係してくることだからだろう。
「俺は、マスターの金儲けの為でも歌いますよ?」
というか、今でも幾らか儲けてるじゃないですか。
と首をかしげながら尋ねる。
「まあでも、企画側としても賛否両論だったんじゃないですか? お金が関係することですし」
「そうとは、思う」
「お金ですし」
「……お金だな」
しみじみと呟くマスターは、画面を見たまま小難しい顔をしている。
「マスターは、どう思うんですか?」
何気ない質問にすぐ返答が返ってこないのは、思考がまとまっていないからだ。うーん、と一つ唸った後、意味も無くスクロールバーを弄った。
「これで食っていきたいと思っている人にとっては、良い刺激だと思うよ。全部結果として返ってくるし。心配なのは、これで変な悪巧みするやつが出てこないか、てことだな」
口に出してようやく固まったのか、ガン見していたウインドウを消してしまう。
「巻き込まれないようにして下さいねマスター」
「うっせ!」
悪態を吐かれつつも、笑い混じりだった。
と、これでこの話題を終わらせようと思っていた。そう言えば、と俺がマスターからマウスを奪取する。
「おい」
「そういえばマスター、この前新曲上げましたよね。民族調のごついやつ」
「ああ、うん。……あ」
「あれ結構カウンター回ってましたよね」
そう言いつつ、ブラウザを再び立ち上げマウス操作。カチカチカチ。マスターが無言になる。
目的のページに辿り着いて、マスターが渋い顔をした。
「頑張りましょう、マスター」
俺はぽんとマスターの肩に手を乗せた。
全ては暑さの所為
「ああ、あっちい」
風呂上がりの濡れた髪をそのままに、寝間着を着たマスターが風呂から上がってきた。その足で冷蔵庫の一番下、冷凍庫を開けてアイスバーを取り出す。包装を剥がす音がして、あ、いちごみるくのやつだ、と分かってしまう俺は把握しすぎだと思う。
アイスをくわえて部屋に戻ってくる。
「あちこち濡れますよマスター」
「すぐ乾くだろ」
とはいいつつ、キーボードに水が落ちないような姿勢でメールのチェックをして、数歩下がりベッドにどっかと腰を下ろした。
先にシャワーを浴びて身支度を済ませていた俺は、マスターの首からタオルをかっ攫って頭を拭こうとする。そこで、はっとする。
「というか、それいちごみるく最後の一本じゃないですか!」
「あ?」
なにそれ、という顔で(実際特に気にしていなかったに違いない)首を後ろに倒してこちらを見てくる。
「名前書いておけば良かった」
「あー、お前本当に書くからなー」
アイスをくわえたままよく器用にしゃべれるな、と変な所に感心しながら、最後の一本を楽しめなかった悔しさからタオルを顔に押しつける。流石に口元は避けて。
「!」
口から落としそうになったのを、すかさずマスターの手が棒を掴む。見えないのによくやりますねマスター。
「お前な!」
タオルまではぎ取ると姿勢を戻しやや荒げた口調でこちらを見るので、溶けて指に垂れたアイスの一筋を舐めてマスターにキスをひとつ。もちろんマスターは黙る。
すぐに離れようとすると、マスターの空いた指先がちょんと俺の顎に当たった。察して、触れるだけのキスを何度か。口を離して、至近距離でマスターと目が合う。
「溶けますよ」
「キスしたかったわけ?」
「最後のアイスだったんで」
「わけがわからん」
マスターはぐずぐずに溶けて棒からずれそうになる固まりをまとめて囓り取り、棒だけになったそれはぽいとゴミ箱に投げ入れる。
ふっとマスターの顔が近くなったかと思うと、横髪を引っ張られ再びのキス。ぺろりと赤い舌が舐めて湿らせた唇はいくらか甘くて冷たかった。
「今日はキス魔ですかマスター」
「だって暑いから」
「……下の熱が?」
冗談交じりに返せば、マスターの目がひやり、じとりと俺を見た。
「……お前そういうのどっから拾ってくるのほんとに。お前いくらか冷たいだろ」
「ああ、そういう意味でべたべたしてくるんですね。じゃあ一緒に寝ますか?」
「……それは暑苦しいから却下」
とはいいつつも、まだ熱い手のひらを俺の首に押しつけてくる。説得力無いですよ。
きっかけ
「おかえりなさいマスター」
今日もマスターの帰りは10時を過ぎる。このところ仕事が修羅場を迎えているらしい。まあ、こうやって帰れているからまだマシな方だとは思うんですが。
3月が近いといえども、まだ寒さは厳しい。夜ともなれば気温が0度近くなることも、まだ珍しくはない。
「ただいま」
鼻の頭を赤くしながらマスターが返してくれる。後ろ手にドアの鍵を閉めチェーンを下ろす音。靴を脱いだ後視線を上げると、俺と顔を合わせる形になる。
「他のみんなはもう寝てますよ」
「……がくぽもか?」
がくぽを迎えた途端に仕事の修羅場が始まってしまい、ろくな交流が持ててないことを気にしているらしい。
マスターとの時間がない代わりに、ボーカロイド同士の交流はそこそこに深まっているんですけどね。多分。
「はい」
「生活習慣正しくて、大変よろしい」
苦笑しながらマスターは肩から荷物を下ろした。
「あれ、なんだがくぽ起きてるじゃん」
台所兼居間に向かうと、がくぽが湯の沸いたケトルを手にしていた。俺が見たときは布団に入っていたのに。
「帰ってくる音が聞こえたからな」
しれっと返す顔に眠気は見えない。(眠気とか疲労というのは、俺たちにとってシステムの熱蓄積具合だったり、一日の運動量から計算されていたりする)
この時間だとマスターは大体、職場で何かしら食べてくるためいつも夕飯は摂らない。
「がくぽ、お湯沸いてるの?」
「ああ」
「じゃあ温かいのでも飲もうかな。マスターも飲みますか?」
「いつものでいいよ」
いつものというのはコーヒーで、角砂糖2個のみのこと。ダイニングテーブルの椅子に腰掛けたマスターを横目に、俺は台所に。
がくぽの隣に立って準備をしようとすると、マグカップふたつを押しつけられた。
何? と思っていると、そのまま踵を返して自室へ向かってしまった。特に無線でなにも言ってこない。なんだろう。
「先に休む」
ドアノブに手をかけて、がくぽは振り返りマスターへそう言った。
「おう、おやすみ」
おやすみという言葉に小さく頭を下げてがくぽが部屋に消える。
何が何だか分からない。休んでいたと思っていたら起きていて、マグカップ押しつけられて、何がしたかったんだろう?
「……ええーと」
俺は思わず唸る。けれどマスターはテーブルに肘をついて、何故か楽しそうに口元を緩めている。
「ん? 君には分からないかねカイトくん」
「僕には何が何だか分かりませんよ、マスター」
「今更僕だとか、気持ち悪い」
いつものやりとりをしながら、インスタントコーヒーの粉をカップに。ついでに角砂糖を入れて湯を注ぐ。スプーンで適度にかき回してから、マスターに渡す。
「そこそこ交流できていた、と思っていたんですけど」
「俺が居ない間にってことか?」
「はい」
コーヒーを受け取ったマスターは、熱いのにも関わらず一口。案の定、熱さに少しだけ眉を潜める。
「ま、人にせよボカロにせよ、そう簡単に本質まではわからんってことかな」
したり顔でひとり頷く横顔は先ほどから変わらず楽しそうだ。
今この家にいるV1エンジンは俺だけだ。レンもがくぽもV2であり、俺に比べれば倫理回路等々も複雑になっていたり、精巧になっていたり。
それを羨ましいとは思わないけれど(マスターはそんなこと気にしていないし、普段生活するのに支障なんてこれっぽっちもない)、時折、これが違いってやつなのかと思うときがある。
例えば今。
より人に近づいた思考は、たまに、ほんの少しだけ羨ましくなる。(マスターと同じように物事を考えられるということだから)
すいっと視界の端でマスターの腕が上がり、その指先が俺の眉間に押し当てられる。ぐりぐりっと、無意識に寄っていた皺を伸ばすように。
その指先が未だ冷えていることに気付きはっとなる。疲れて帰ってきているのに、俺が心配させてどうすんだ。
「またあれこれ考えてるだろー」
困ったように眉を下げながら、けれど容赦なく眉間を突いてくるマスター。俺はまだまだだなあ、と思う。
「……敵いませんね」
「敵われたら困るし」
俺があなたに敵える日がくるのかは全部俺次第だと思うんですが、ちょっと頑張ってみますよ?
マスターは指を離すと、残ったコーヒーを一気飲み。まだ温かいカップは貰って、風呂へと急かす。
がくぽとも、もっと話をしたくなった。
up2013/03/12
Title : OL さま