ここにいます


「っじゃーん」
 効果音をわざわざ自身の口で出しながら、は透明なケースに収められたディスクをカイトに見せた。のベッドの上でヘッドホンから流れる音に耳を傾けていたカイトは、マスターの行動に首を捻りながらも突き出されたディスクの表面を見るため身体を起こす。
「何ですか? ……って、KAITOのV3じゃないですかあ! V3だ!」
 歓喜に立ち上がりの手からケースごとディスクを奪い取ったカイトは、装着していたヘッドホンをぽいとベッドへ放り投げる。
 V3の発売告知が出てから暫く経つが、まだ発売日が決定しているわけでもなく公式のHPで特設サイトがオープンしている程度。カイトがはしゃぐのも無理はなかった。
「あっおいこら、ヘッドホン投げるなよお前」
「うわー、マスター、デモ頼まれたんですか?」
 の非難の声を余所に、まるで宝物のようにディスクを掲げカイトはその場でくるりと回る。動きに合わせてトレードマークの青いマフラーもひらりと舞った。その揺れるマフラーを容赦なくぐいと掴み引き寄せ、そのせいで首が締め上げられたカイトはぐえっとひしゃげた声を上げる。
「し、締まって、締まってます!」
「酸素が無くても生きていけるヤツが何をいってんだ、ディスク返せ」
 ギブギブと呻きながらマフラーを握る手からケースを取り返し、は手を離す。その場によろりとしゃがみ込んだカイトはうっすら涙目でケースを手の中で回すを見上げる。してやったりといったように見下ろしてくる自らのマスターにむっとなって、カイトは言い返す。
「確かに酸素なくても死にませんけど、喉がつぶれたら歌えなくなりますからっ」
「……それは悪かった」
 実際そうなってしまったときのことを想像したのだろう、どこか青い顔では素直に謝罪する。再度立ち上がったカイトと入れ替わるように、はパソコン前の椅子に腰掛ける。

 薄い透明ケースに収められたディスクは、表面に青い印刷がされている。はこれなぞるのが好きなんだよな、と思いつつもケースを開けようとしない。ケースの端と端を指で押さえ、くるくると回してばかりいる。パソコンはすでに起動状態になっており、いつでも作業は始められる状態であるにせよ、だ。
 その様子にカイトはこてりと首を傾げる。が、こういった状況は今まで度々目にしてきた。長くなるだろうなあと思い、後ろに回した腕を緩く組む。
「今度はどうしたんですか、マスター」
 パソコンのディスプレイを見つめたままのを小さくのぞき込む。生返事を返した顔は案の定、先ほどカイトを弄っている時の生き生きとした表情ではなく、僅かに眉を寄せて目の前の液晶を睨んでいる。
「んー、いや……」
 返答にもキレがない。
「あれですか、エンジンですか? V3すごいですよねえ、英語まで入っちゃってるんですから」
 何事か悩むをよそ目に、カイトは笑いながら端をつままれたケースをつつく。それにはこら、と小さなお咎めがあったがそれだけで、はケースをキーボードが設置されたテーブルの端に乗せる。椅子の背もたれに身体を預け腕を組み、本格的に悩みの種と向き合うようだ。
「……聞いた所によると、他のデモを頼まれた所はどこもソフトウェア版らしい」
 現在ボーカロイドはソフトウェア版とアンドロイド版のふたつがある。は出会い方からしてアンドロイド版以外の選択肢が頭になかった状態だが、世間には様々な事情などによりアンドロイドを迎えることが出来ない所もある。そういった場合にも広く普及させようと、ボーカロイドには実体のない、そして意志のないただのプログラム版があるのだ。
 どちらもそれぞれに利点があれば難点もある。
 例えばソフトウェア版では、実体がないゆえにいつもで一定の成果が得られる。しかしアンドロイドともなれば感情も持つため、そうはいかない。日によって調子が変わることもよくある話だ。
 だがアンドロイドは他者とのコミュニケーションで学習することが出来る。感情を知り、歌詞に旋律に込められた想いを理解することで1+1の結果が2以上になることもあるのだ。
 例え良い点が多いとしても、なにより絶対的に手間がかかるのは明らかにアンドロイドである。それを嫌ってソフトウェア版を買い求める者も多い。
「はあ、まあいろいろ大変ですからねえ」
 実に他人事のように感慨無く呟くカイトを一発ぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、はぐっと堪えた。今し方吐露し始めた悩みが先だ。
「ソフトならV1とV3の併用が可能だよ、ただ二つともインストールしてればいいんだから。でもお前はどうなるんだ?」
 ディスプレイから視線を離して、きょとんと目を丸くしているカイトを見上げた。
「どう、とは?」
「お前の中で併用はできるわけ?」
「ああ……」
 そういうことですか、とカイトは納得して小さく頷く。
「別にどおって事無いですよ、メモリの余裕はありますし。どっちも入れておいて、俺がぽちぽちっと切り替えをしてやれば大丈夫なはず。――です」
 言葉の最後が濁ったのがには気になった。不満げな顔をしてカイトを見れば肩を竦められた。
「やったこと無いんで、分かりませんというのが本音です。まあ本家のお仕事を疑う訳じゃないですけど、俺色々と問題持ちなので……影響がどう出るかやってみないとほんとに分かりません」
 そう言って苦く笑うカイトは言葉の通り少々、問題持ちであった。今は落ち着いているが、一時期酷く影響が出ていた頃を思い出しても口元が苦く歪む。
「ああ……うん……。そう、か」
 いろいろあったなあと過ぎた過去を駆け足で振り返ながらは無意識で首をさする。
「でもどうなんでしょうね、V3入れて人格分裂です! みたいなことになるんですかね?」
 しんみりとした空気をぶち壊したカイトの発言に、は嫌そうに眉を潜めてじとりとカイトを見上げた。その視線の理由がカイトは分からず、心外だというようにの眉間を指先でぐりぐりと押し込んだ。すぐに腕は下ろしてしまうが、少しだけふて腐れた顔がを見下ろす。
「なんですかもう、その顔は」
「……お前に期待した俺が悪かった。そういうバグは報告されたりすんの?」
「空気入れ替えてあげようとしたんですってば。――デモ版で他はソフト版なのに、そんな報告上がってると思いますか?」
 それを聞いたはばつの悪そうな顔をした。その点をすっかり失念していた。
 これ以上問題が起きるのは正直な所勘弁して欲しいと思っていた。しかしもう家族同然なのだから、最後まで付き合うと言う事は腹に決めている。
 自身V3に多大な興味は持っているが、大きな障害が、それこそKAITOという存在に影響を与えるほどの問題が発生してしまうならばインストールはしたくなかったのだ。
「まあとりあえず、インストールするなら色々と保険はかけておいた方が良いでしょうね」
 その言葉で、カイトは己に関する全権をに委ねていた。
 多少の文句は口にするかも知れなかったが、インストールするにせよ、しないにせよ全てにおいて反対するつもりなどなかったのだ。念のために、万が一の時の事は考えておかなくてはいけない。データさえあれば悪い結果になったとしてもなんとかなる。それこそ、たとえ再インストールになって今のカイトを構成している個人情報が綺麗さっぱりになってしまってもだ。
 は、そういうカイトの言葉の裏をきちんとくみ取り、うん、と頷き返す。
 手持ち無沙汰に手の中で遊んでいたディスクを睨む。しばらくにらめっこが続いていたがふいにの視線が和らぎ、カイトを見上げた。
「なんかあったら、悪い」
 先ほどまでぐだぐだと迷っていたのが嘘のようだった。真っ直ぐに見上げてくる視線を受けて、言葉にカイトはにこりと笑顔を返す。
「いえ。俺は大丈夫ですから」


up2014/11/3
V3が出た辺りから温めていた^p^