一人用土鍋の中には玉子がゆがぐつぐつと煮えたぎっている。それをおたまでぐりぐりかき回し混ぜると、はず、と鼻をすすった。
彼のそばにはミクが小さく首をかしげながらその様子を見ていた。
コンロの火を消しレンゲを鍋に突っ込む。鍋つかみを装備した両手で土鍋をつかむ。
「あの、マスター。それ持ちますっ」
素手で高熱になった土鍋に手を伸ばそうとするので、なるべく自然になるよう手をよけ彼女に言った。
「いや、大丈夫。かわりに醤油持ってきて」
「あ、はいっ」
控えめに元気よく返される。
ああごめんよミク、今おまえの声はとんでもなく頭に響いて痛いんだ……。
だいたい季節外れの風邪が悪いんだな、これは。垂れそうになる鼻水をすする。
テーブルに鍋を置くと、そばのソファーに座っていたカイトが立ち上がった。
「大丈夫ですかマスター……。顔赤いです」
いつもより少しだけ眉を八の字にしたカイトがの前髪をかき分け額に手を当てる。
「さっきより少しあがってますよ。て、マスター? 聞いてるんですか?」
カイトの手の上に自らの手を当てる。ひやりとした体温。風呂上がりのように火照った体にはとても気持ちのよい温度。
「聞いてるよ。――冷たくて、気持ちいー……」
ふ、と伏せられる瞼。
(なんか、マスターがおとなしい……。風邪、だから?)
いつもの調子でないと、こちらの調子も狂ってしまいます、マスター。
「マスター、お醤油取ってきたよ」
ガラスの醤油差しを手にミクがやってくる。どこかぎこちない動きでカイトがの額から手を引いた。
「ありがと」
瞼を上げるとミクから醤油差しを受け取る。土鍋の中の玉子がゆに醤油を垂らし、レンゲで掬って口に運んでいく。
無言で食事をする彼を、ミクとカイトがじっとみている。
三分の二ほどを食べ終わった頃、レンゲをおいてが深く息をついた。
きつい。なんだか今まで生きてきた中で一番きつい風邪かもしれない。そういえば風邪薬、あったっけ。
大分ぼんやりしてきた頭でふと考える。手を止めた彼に、カイトが声をかけた。
「マスター、大丈夫ですか?」
「んー……薬、箱」
だるい腕を上げてスチールラックに収納されている薬箱を指さす。近くにいたミクが素早く立ち上がり探しに行く。
すぐに見つかった赤いプラスチックの蓋の箱。はそれを受け取ると、蓋を開けて中をあさった。
頭痛薬、胃腸薬、その他痛み止め。中身を床にばらまいてまでして確かめたが風邪薬がない。じゃあほかの解熱剤でも飲むか、と箱を取って側面を見た。
ことごとく消費期限が切れていた。
「わー……い……」
うれしくない。非常にうれしくない。使わないから放置、というのがいけなかったかなあと一人反省会をし始め項垂れるの背中にカイトの手が触れる。
「マスター? 薬、ありましたか」
が顔を上げるとカイトは心配そうに目を細める。
「無かっ、た」
「え!? ど、どうするんですか?」
「寝る……片付けといて」
ふらり、と立ち上がる彼を慌てて立ち上がったふたりが支える。
立ちくらみで目の前が数秒暗くなる。鮮やかさを取り戻した視界に、ミクの顔がアップで映る。いつになく真剣な表情だった。
「マスター、マスター」
「ん……。何、ミク」
泣きそうな顔にはがんがんと痛む頭を堪え、できる限り優しい声色で返す。いつも笑顔しか思い浮かばない彼女なのに、どうしたのだろう。
「死なないよね……?」
後ろから抱きかかえるカイトの腕が一瞬、ほんの一瞬だけ小さくはねた。
彼らボーカロイドにとってはマスターがすべて。歌うことがすべて。
ましてマスターが死んでしまうなど――
そんなことを思い出して、はゆっくり腕を上げミクの頬をなでた。目一杯の優しさを込めて。
「風邪ぐらいじゃ、死にやしないよ。大丈、夫」
……まあはっきり言って結構きついけど。
柔らかな笑みと言葉に安心したのか、ミクは大きく頷いた。
「お兄ちゃんはマスターベッドに連れてって。わたし片付けておくから」
「わかった」
真上から聞こえる声に違和感を感じつつ、両足に力を込め踏ん張る。
「歩けますか、マスター」
「ん」
横からカイトに支えられながら自室のベッドにたどり着く。
ベッドに腰掛け一息。風邪だとわかると急に悪化するとかいう、あれか。
部屋の外から、水音と食器のこすれる音が聞こえた。ミクが片付けているのだろう。
カイトはぼうとを見ていた。その視線を感じたのか、はカイトを見上げる。
「カイト?」
名前を呼ばれはっとなり瞬きをする。赤い顔をしたが不思議そうに見上げていた。
「あ、いえ……なんでもないです。それじゃあ、俺出てますね。何かあったら呼んでくださ……」
「カイト」
すべて言い終える前に呼ばれ思わず反射条件ではい、と返す。
じい、との黒い瞳がカイトを見ていた。風邪の諸症状により体調が優れないとはいえ、その視線はいつもと変わらないものだった。
「なあ、やっぱり、おまえも俺が死んだら嫌?」
問いかけに彼は青い瞳をまん丸にしてみせた。それから僅かにうつむく。
「それは……もちろん、嫌です」
声が震えている。予想していた答え。はふ、と目を細めた。
「アンインストールよりも?」
「っ! ――どっちも、です」
カイトが手を握りしめた。泣くのを堪えているようだった。――まだかれらが泣いたところをは一度も見たことはなかったが。もし流すとしたら、それは俺が死んだときだろうか?
先を促したわけでもないが、カイトはゆっくりと口を開いた。
「俺たちはデータさえあれば、完全に消えることはありません。尤も、俺を俺としているデータが消えなければ、ですけど。
けど、マスターはそうじゃない。一度終わってしまったら、それが最後じゃないですか……」
これ以上言わせたら本当に泣いてしまうそうだ。は腕を伸ばしてカイトの腕をつかんだ。そのまま大して力を入れずに引くと、あっさりカイトは床に膝をついた。
「悪かったよ。別に泣かせようとした訳じゃ、ないんだけど」
カイトの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、頭を抱き寄せた。
「泣いて、ません」
「はいはい」
頬をくすぐる青い髪。熱に浮かされているのも忘れて、子供のように震えるカイトを抱きしめていた。
「やっぱり、体温、低いなぁ」
が腕を放すとカイトはすぐに立ち上がった。泣きそうな顔は消えていた。いつもの、柔らかな笑顔。――今は少しだけ寂しそうにゆがんでいるが。
「マスター。もう寝てください。じゃないと、治るものも治りませんよ」
カイトが急かすようにの肩を押す。今度は照れ隠しのようにふて腐れる。
(あーもーかわいい奴)
おっとまたふらふらしてきたぜ。こみ上げるにやけを押し込む。
体をゆっくりベッドに横たわせる腕を掴みながら、はベッドに背を付けた。
足下へ蹴り飛ばされていたタオルケットを、カイトがきっちりの胸元まで引き上げる。
「おやすみなさい、マスター」
早く良くなって欲しい一心で、笑顔とともにそう告げる。が、タオルケットの中から伸びたの手がカイトの手首をつかんだ。
「行く、なよ」
「え……」
見上げる瞳は熱のため潤んでいる。頬も赤くなっている。
カイトの頬に熱が集まる。
「逃げるな、氷枕……」
ああやっぱりそっちですね期待した俺が悪かったです。さっきの熱もすぐに発散。
仕方なしにのベッドのそばにもう一度膝をつく。赤い頬に手を這わす。
「マスター、片付け終わったよ!」
ばんっ、とミクが勢いよく部屋のドアを開け放った。カイトが驚きにびくりと体を震わせミクを見る。ミクはとカイトの二人を交互に見やり、そして頬をふくらませた。
「お兄ちゃんだけずるいっ、ミクもする!」
え? と訳のわからないままカイトが呟くが、ミクはすたすたとベッド際まで歩いてくるとしゃがみ込み、上半身をベッドの上にもたれさせた。
「こら、ミク」
少し笑いながらが足の上に乗りかかるミクをたしなめる。
「だって、お兄ちゃんマスターにべたべたでずるいんだもん」
その言葉に、カイトが僅かに耳を赤くしたのをはさりげなく横目で見ていた。
ベッドに横たわっていると、体は疲労があったのかだんだんと瞼が重くなってくる。今目を閉じたら意識が落ちてしまいそうだった。
「マスター」
カイトが優しく呼ぶ。目にかかる前髪をそっと払う。
「おやすみなさい」
「おやすみ、マスター」
薄く開けた瞼にからふたりの微笑みがうつる。急に眠気が迫ってきた。ああもうこんな時に。
「おや、す み」
意識が引っ張られるのを堪えそれだけ言う。目を閉じてしまうと、一気にの意識は闇に落ちた。
規則正しい呼吸を聞いて、ミクがつまらなそうにいう。
「マスター、ほんとに寝ちゃった」
「体調悪かったから。ほらミク、ゆっくり寝かせてあげよう」
「うん」
カイトが立ち上がり、それに続いてミクも立ち上がる。ぱたぱたと軽い足音をさせてミクは部屋を出たが、カイトは出なかった。
眠るを見る。
「――――、」
身をかがめ、タオルケットからはみ出ている右手を取る。その甲へそっと唇を落とす。触れるだけの口づけ。
手をゆっくりとベッドの上に戻し、顔を真上からのぞき込む。
顔を近づけようとして、身を引いた。
どこか寂しそうな顔をして彼は再びちいさくおやすみなさい、と呟き部屋を出た。
けたたましい目覚まし時計の電子音が鳴り響く。もぞ、とが腕を伸ばし時計を取ろうとして失敗する。時計が床に落ち、その拍子で音が止まる。
「うー」
むくりと上半身を起こす。寝癖がひどく、髪の先があっちこっちに跳ねている。
ドアノブが下がりドアが開く。そこにはカイトが立っていたが、を見て一瞬目を見張っていたがすぐに微笑む。
「おはようございます。今日、何か用事ありますか?」
「えーと、いや、特には」
「そうですか。――体調は?」
は自分の頬に手を当て、次に額に当てる。
「ん、もう熱ないや」
「それはよかった」
「カイト」
朝ご飯は、と言う前に名前を呼ばれ首をかしげる。
「何ですか?」
「ちょっと」
こっちに来い、とは手招きをする。何かと思いつつベッドへ近づくと、急に首に腕を回された。
「え、あ、ちょっと、マ、マスター」
動揺するカイトをそのままに、ひやりとする彼の体を一方的に抱きしめていた。
「マス、ター」
動かないに、カイトは不安げに声をかけた。視界に入るの右手で昨晩のことを思い出してしまいそっと視線をそらした。ああ、なんであんなことしたんだ。
「やっぱりだるいかも」
ぼそりと耳のそばで呟かれる。
「無理しないでください、今日も寝ててかまいませんから」
「んー……」
ずるっとずり落ちるようにがカイトから離れる。
ベッドの上で胡座をかき跳ねまくりの髪を触っていたが、ふと顔を上げるとカイトに向かって微笑んだ。
「おはよ」
カイトの中で昨日の赤い顔をして、いつもより大分弱った彼が視界に重なる。それを払うために一度目を閉じて、開けた。目の前にはいつもの、どこか挑戦的な目をした。
そう、そうでなくちゃ困ります、マスター。
「おはようございます!」
up2008/08/31
ずっと側にいれるなんて思っていないけれど、そのときが来るまでは。