マスターの居ない夜。仕事で今晩は帰ってこないと出がけに言われた。
ミクはとっくにスリープに入っている。一人きりの夜は静かだ。自分が動かなければ、何の物音も衣擦れの音もしないんだから。
そっと入ったマスターの部屋。きちんと整理整頓しているあたり、マスターらしい。
机の上に数枚のDMが広げられている。「 様」という宛名を指先で優しく撫でた。「 」。そう名前を呼ぶことはないけれど、きっとずっと忘れることのない名前。
綺麗なドレープが入るカーテンをそっと開け、見上げた夜空には月が浮かんでいた。赤い――と言うにはまだ赤みが足りないけれど、いつも見ていた月に比べればずっと橙が強い。
余りにも遠いため、ぼんやりとしか見えない月面の陰影。その影が、わらっているように見えて思わず息を止めた。
シャッ、と金具がレールを滑り、外の世界から部屋を遮断する。機械制御されているはずの呼吸が大きくなるのが分かり、落ち着こうと目を閉じた。
何故だか見ていたくなかった。――いや、理由は分かっている。
あの月が僕を嗤っているように見えたんだ。嘲笑。口元をつり上げた笑み。
何も出来ない僕を。嗤っている。何も言えない僕を。
今の関係が壊れてしまうのを恐れて、僕は何もすることが出来ない。壊れてしまうなら、いっそ、ずっと今のままでいいと思う。
マスターがこのことを知ったらどう思うだろう。拒絶されてしまうのが怖くてその先にすら考えを向けようともしない。
そっと瞼を上げる。
暗い部屋。迷うことなく僕はマスターのベッドに寄りかかり、床に腰を下ろした。
早く帰ってきて欲しい。せめて側にいて欲しい。こういうのを、寂しいというんだろうか。ひとりで過ごす夜。誰かに側にいて欲しいと思う気持ちを。
ふと耳にノイズ。俯いていた僕は顔を上げる。ぱっ、と暗い部屋を電話の小さな液晶が照らす。電子音。電話が鳴っている。
立ち上がりそれを手に取り、液晶を見ると――マスターだ! 即座に外線ボタンを押す。
「は、はい。カイト、です」
『なんだ、まだ起きてたのかお前……。まあいいけど。どう、なんか変わりは?』
電話越しのマスターの声は、いつもより疲れた声だった。似ているとすれば、徹夜明けの時のような、少し掠れた声。
「何もありませんよ。ただ……いえ、なんでも、ないです」
つい月のことを言いそうになり、取り消す。慌てた様子が向こうに伝わってしまっただろうか。
『? そか。もっと時間がかかるかと思ってたんだけど、今終わった。1時間後には帰れるだろうから、連絡入れといた』
「わかりました。えっと、気をつけて下さいね」
小さく笑う声が聞こえる。ああ、なんでこんなに音質が悪いんだ、この電話は! ノイズ混じりじゃなくて、もっとちゃんと、聞きたかったのに。
『もちろん。じゃあな、カイト』
「はい。気を付けて」
ぷつり、と通信が切れる。電話を耳から離して通話を切る。
疲れた声をしていた。帰ってくるまでに何か温かい物でも用意しておこう。暖まる物がいいな。
そっと机の上に電話を戻し、マスターの部屋を出た。
「ただいまー、っと」
マスターが帰ってきたのは、電話から50分ほど後の事。もう深夜の2時を過ぎているので、なるべく音を立てないようにしているようだった。
「おかえりなさい、マスター」
もちろん出迎えた。こちらを見たマスターは靴を脱ぎながら、やっぱり起きてたか、と少し困ったように呟いた。
「まあ、もしかしたらスリープ入ってるかも、とか思ったんだけど。まあお前だからなあ……起きてると思った」
「ちょっとスリープ入るような気分じゃなかったんです」
床に置いていた荷物を持ち上げ、マスターはへえ、と面白そうに笑う。
「ほーん? あとで聞かせて貰おうか。なんだ、昨日の練習がうまくいかなかったから一人反省会とかか?」
「そっ、そんなことないですっ!」
笑いながら(吹き出しながら?)廊下を歩いていくマスターの背を追う。
いつも通りのやりとりに、どこか安心する。ほっとする。
……今のままで十分だと思えるのに、これ以上を望んでいいんだろうか。こちらが言い出さなければ、何も変わらない。マスターはきっと知らないだろうから。
マスターが自分の部屋に入り、荷物を机の上に放り投げる。そんな乱暴にやってると、いつか、何か物が壊れますよ。
ベッドに腰掛け、深いため息をつくマスターを見てそういえば、と話を切り出す。
「マスター、疲れてるだろうと思って温かい物作ったんです。飲みますか?」
上着のボタンを外しながらこちらを見る。ああ、眠たそうな目になってる。
「飲む。何?」
「ちょっと生姜を入れたロイヤルミルクティーです」
「ん、最高。よろしく」
「はい」
すぐに部屋を出てキッチンに向かう。温めてからマグカップに注いで、すぐに戻る。部屋に入ると、マスターは既に着替え終わっていた。
「マスター、どうぞ」
「ありがと」
伸ばされた手にマグカップを持たせる。一口すすって、再びため息。上手く作れたようで一安心する。
ベッドに腰掛けたまま、マスターは脚を伸ばす。
「帰ってくる途中に見えたんだけど」
「はい」
ベッドの側に立つ。閉められたカーテンを見て、ゆっくりと瞬きをするのが見えた。
「満月かそれに近くて。だけど赤かったんだよな」
マスターも見てたんですね。前髪をかき上げ、マスターはマグカップを口へと運んでいく。
「綺麗だと思ったんだけど、なーんかクレーターっていうの? 影の模様がわらってるように見えてさ」
「――はい」
僕はそれを、自分を嗤っている顔だと思いました。これは音にはしない。口にしそうになるのを飲み込む。
でも同じようにあの月を見ていたことに、正直、喜んでいる自分がいます。
カーテンを見て(いや、正しくはその向こうの月だ)何度か瞬きを繰り返すマスター。眠たいんだろうか。
「馬鹿にされてるかと思ったな」
その言葉だけは力強く、けれど確かに嫌悪感がにじみ出ていた。
「言いたいことも言えなくてじたばたしてる俺を馬鹿にしてるのかと思った。……月は嫌いじゃないはずなんだけどなあ」
はああ、と三度目のため息は肺を空っぽにする勢いだった。
マスターでも、言いたいことを言えないときがあるんですね。
そう、ですよね。仕事を貰って、打ち合わせとか……思ったようにいかなかったり、できなかったり、しますよね。
「だからせめてお前等の特訓に手は抜かないことにした」
「ぬ、抜いてたんですか?」
むしろそっちに驚きですよマスター!
すると少しだけ、ふっとしてやったりな顔をする。
「――カイト、言いたいことは言っとけよ。内容によるけど。後悔することになっても、俺は知らんぞ」
向けられた視線は真剣だった。よほど悔しいことでもあったんでしょうか。
言いたいことはですね、マスター。沢山あるんですよ。口に出せないだけで。
「……はい」
マグカップの中を全部飲み干したマスターは、空になったそれを差し出してくる。それを受け取り、その時に指が当たって、少しだけ動揺してしまう。人工の自分とは違う、本当の暖かさ。
動揺を押し隠し、咄嗟に口から言葉が出る。
「おかわり、は、いいですか?」
「いらない。ごちそうさま。おいしかった」
足をベッドに上げているところを見ると、もう寝てしまうらしい。ベッドの端に寄せられたタオルケットを引っ張り上げている。
あんなことを言われた。これは、言ってもいいという許しですか?(……そういう意味じゃないのは、分かってるんです)
「マスター、」
枕に頭を埋めたマスターは、視線だけをこちらに向ける。何、と眠気に飲まれそうな目が見ていた。
「……おやすみなさい、マスター」
……だいすきですよ、ますたー。
「ん、おやすみ」
一度手が振られ、ベッドに落ちる。電気を消してから、マスターの部屋を出た。
空のマグカップをシンクに置く。
まだ。
まだ、時間はある。
急ぐことはないんだと自分に言い聞かせた。
up09/09/12