タイムカード代わりのカードをかざす。ICチップに反応し、ピッと電子音が鳴る。カードを胸ポケットに戻し、は会社を出た。
19時過ぎの退社、足取りは重い。表情が冴えないのは、あたりが暗いだけではないだろう。駐車場を横断し、端に停めた車のロックを解除、運転席へと乗り込んだ。
シートベルトを装着してからエンジンを始動させ、はあと重い息を吐いた。
(……頭痛え……)
鈍く頭痛がする。無意識の内に眉間に皺が寄るのを感じながら、静かにアクセルペダルを踏み込んだ。
いつもなら音楽をかける所だが、生憎とそんな気分ではなかった。閉め切った車内にはエンジン音と、タイヤが走る音だけが聞こえる。
(なんで、だろーなあ……)
ウインカーを出しつつ、再びため息。
(……まあ俺が悪いんだけどさあ100パー)
仕事の失敗を反芻するように、音には出さず吐き出す。
結局は自分の不注意が全てなのだけれど。
作業を進めていたとある仕事が、あともう一息で終わるという所で致命的なミスを発見した。
みっともないと思いつつも、見つけてしまったときの衝撃は何回経験しても気持ちのいい物ではない。
さっと頭から血が引いていくような感覚。その後から、胸が圧迫されるように呼吸が僅かに苦しくなる。
今回はあんまりにもそれが長引いたもので、本気で吐き気と頭痛を催した。静かに顔色が悪くなっていくに、周りの同僚はさりげなく気遣いをしてくれた。
けれどかえってその気遣いが――決して不快というわけではないのだが――辛かった。惨めだと、思ってしまう。
一月ほど前、別件でなにかしらのミスを出してしまったのもの記憶に新しい。
気をつけさえすれば無くすことの出来るミスだが、それがうまくいかないとはどういう了見だ、と自分に問いただす。
ミスをしてしまったという出来事と、忙しい中同僚へ仕事を回してしまうと言う罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。
ああ、しんでしまいたい。――いや、死なないけど。死ねないけど。
そんな自問自答はさらに自分へとストレスをかけるだけだと分かっている。一度だけで押し止めた。
車を停め階段を上がる。玄関の鍵は開いていた。靴を脱いでいると、軽い足音。
「おかえりなさいマスター!」
クロップドジーンズにTシャツというラフな格好をしたミクが出迎えてくれた。
「ただいま。カイトは?」
「奥で晩ご飯作ってるよ。……マスター、もしかして具合悪い? 大丈夫?」
顔に出さないようにしていたつもりだったが、あっさり見破られどきりとする。いいや、と口から突いて出た。
「ちょっと疲れたかな。寝れば治る、大丈夫」
笑いながらすれ違いざまにミクの頭を撫でていく。きゃあ、と嬉しそうな声が上がった。
「ただいま」
台所に立つカイトへ声をかける。振り向いたカイトが、ぱっと表情を明るくさせ持っていた包丁を下ろす。
「おかえりなさい、マスター。もうすぐできますよ」
「あんがと。着替えとくわ」
「はい。……あの、マスター?」
部屋へ向かおうと背を向けた所で呼び止められ、顔を反転させる。
「何?」
「ええと、いや、やっぱり後でいいです」
すみません、とカイトは再び背を向ける。その態度には疑問を抱くが、カイトは再び振り向く様子がない。しかし彼がまた後で、と言うのならその通りなのだろう。問い詰めるでもなく、は大人しく部屋へと向かった。
はシャツにジャージのズボンというラフな格好で食卓に着く。目の前にひとり分の食器が並べられていく。
隣の席ではミクが水を飲んでいた。ボーカロイドは基本的に飲食をしないが、出来ないわけではない。体内の水分量を調節するために、よく水分は口にしているのを目にする。もっとも、食べた物が何処へ行くのかは未だ理解できていないが。
手を合わせてから、湯気の立つご飯が盛られた茶碗を持つ。
「炊き込みご飯だ。珍しいな」
「昼間にテレビでやってまして。丁度材料があったので作ってみたんですが、どうです?」
「ん、んまいよ。つか、ますます主夫っぷりが板についてきて嬉しいよー俺は」
「そのゴボウの笹掻き私も手伝ったの!」
びしっと片手を上げてミクが胸を張る。
「おー、すごいな。手切らなかった?」
「平気平気! 楽しかったよー」
至極楽しそうにミクが笑う。つられても笑みを浮かべ、彼女の頭を撫でる。
食後のコーヒーを済ませた後、は自室でパソコンを立ち上げていた。何かをしている訳ではなく、意味なくページをスクロールしていたりページ間を行ったり来たり。
はあ、と深いため息を一つ。何もする気になれない理由は明確だった。未だかつて無いほど沈んでいるな、と自身感じていた。
控えめなノックの音。相手は分かっている。
「どした、カイト」
「遅くにすみません。食事前に呼び止めた用件なんですが」
「ああ、そういえば。……どした?」
椅子を回転させてカイトと向き合う。思いの外、カイトは真剣な表情をしていた。
「なにか、ありましたか?」
はてっきり、カイト個人の頼み事かと思っていた。何かが無くなった、あれが欲しい等の類かと思っていたために、その一言の意味が理解できず動きが止まる。
それが自分を気遣う言葉だと理解して、ああ、と呟く。
「……分かる?」
困ったように表情を崩して、は頭を掻いた。表情に内面を出しているつもりは無かったのだが。
呆れたようにカイトが大きく息を吐いた。
「あのですね、マスター。どれだけ一緒に生活してると思うんですか?」
それぐらい分かります。と断言され、今度は気まずくなる。
「そうやって隠すのはやめてくださいって言ったじゃないですか。溜めるのはよくない、ってマスターも言ってましたよね?」
「お……おう」
確かに言った記憶もあるし、自分も人にそう告げる。それをそのまま突き返されてしまい、さらにが小さくなる。
椅子のすぐ近くまでカイトが近づいてくる。
ごく自然に腰を落とし、と視線を合わせたカイトは寂しさを滲ませた表情で笑う。
「我慢してるの、分かりますよ」
そうやって隠される方が俺にとっては辛いです。
が落ち込んだカイトにするように、カイトはの頭を撫でた。彼なりに慰めようとしているのを感じたは、いつもとは全く逆の立場だと小さく笑う。
「な、なんですか急に笑って」
「いや、俺は馬鹿だなあーって思っただけ。悪ぃな、カイト。あんがと」
どこか名残惜しそうにカイトの手が離れる。腰を戻した彼は、飽きずにを見ている。
「まあ吐き出させて貰うなら、うん、もう消えちまいたいと思ったよ。本気で。でもお前ら置いて消滅なんてできないもんな」
「はい、マスターが居なくなったら困ります」
「まだやりたいこともあるし楽しみも残ってるし、死ねないし消えれない。やっちまったことは仕方無い、反省してもーやらないしかない」
自分に言い聞かせるように言葉を吐き出し、椅子から立ち上がったはカイトの胸に拳を押し当てる。
「――なんとか頑張るよ」
「はい」
明るさを取り戻した笑顔に、カイトは自然と笑みを浮かべた。
「よし、気分転換だ。アイス食べよアイスアイス」
「えっあるんですか!? 俺冷凍庫漁りましたよ!」
「漁るな馬鹿。ミクー! アイス食べよう! 俺復活したから!」
小走りの足音が聞こえ、ミクが髪を揺らしながらやってくる。
「本当? よかった! 帰ってから落ち込んでるから心配だったの」
台所へ移動しながら、ミクがの腕を取る。ちょっとした甘えだったが、は振り払わない。ふたりの後ろを、カイトがついて歩いた。
「やっぱり、分かる?」
「うん。だっていつもと雰囲気が違ったもん」
冷蔵庫の前でしゃがみ込み、冷凍庫を開ける。カイトが漁ったというのは嘘ではないらしく、庫内が荒れていた。奥からアイスの箱を引っ張り出し開封。バニラのアイスバーをふたりへ渡す。
「私だと何て言ったらいいのかわからないから……。お兄ちゃんなら気の利いたことしてくれるんじゃないかなーって」
アイスの包装を剥ぐ音がみっつ。この子なりに考えてくれていたのだと、は胸が熱くなる思いだった。
思いの外、彼らはの知らない内で役割分担をしているようだった。
「まあその通りなんだけどなあ」
苦笑しつつアイスを囓る。アイスバーの1本や2本、食べきるのに大して時間はかからない。ならばすぐにゴミを捨てられる台所で、というのが定番になっていた。
「頑張って、としか言えないけど、頑張ってねマスター。いつも応援してる!」
「俺も応援してますから。……という訳で、次の新曲はまだですか?」
「お前は図々しい」
up11/06/08
そんな時もあるさ。