微かに

 どこかでオルフが竪琴を弾いている。繊細で美しい音が、風に乗っての耳に届く。最近滅多に弾かなくなってしまったので、かすかでも聞けたことをうれしく思った。そっと竪琴の音に耳を傾けながら、は廊下を進んでいく。
 一つのドアの前では立ち止まる。
「閣下。です」
「入れ」
 中からすぐさま返答が返り、しかし両手がふさがっているためドアを肩で押し開く。

「そろそろ日が落ちようかと言うときにすいません」
 申し訳なさそうに眉をハの字にしながら、は正面のアメティストスに謝罪をする。
「構わんが……多いな」
 一旦手を止め、彼はの手元を見る。ずいぶんな量の紙束が抱えられていた。
 彼のつく机の上にもまだいくつかの紙の山が残っている。
「ようやくシリウスが書類を終わらせたんですよ。よければお手伝いします」
 机にもう一つ山を作ると、は処理済みの山を机から下ろし別の場所へ運んでいく。
「……悪いな」
「まあオルフならまだしも、シリウスには頼めないでしょう? 構いませんって」
 ほんとに脳筋なやつですよね!
 アメティストスを見、ふわりと微笑んで見せる。赤みの強い茶の瞳が細められた。
 お手伝いしますねと机に近寄り、山の一つを適当に選んで抱えようと腕を伸ばす。

「――
「は? い、つっ」
 不意に耳元で名前を呼ばれたかと思うと、もみあげと後ろ髪の一部をむんずと掴まれた。その力が思いの外強かったので、傾く体を支えるため咄嗟に机に手を着く。運悪くその近くにあった紙束に腕がぶつかり、大きな音を立てて床へと散らばった。

 ――顔が近い。整っていながらも精悍な顔が、自分の肩口に顔を近づけている。
「か、閣下……なに、っ」
 すん、と鼻の鳴る音が聞こえる。においを嗅いでいるのか、泣いているのか……いや、後者はありえないと瞬時に選択肢から消去された。
 銀と紫の豊かな髪がの首筋を撫でていく。そのくすぐったさに身をよじると、動くなと言う代わりに空いた片手で肩を押さえられる。
 唐突にアメティストスは体を離すと、眉間にしわを寄せをじいと見つめた。髪が撫でていった場所を無意識に押さえながら、は机から一歩離れる。さっと頬に朱の差したが驚きに叫ぶ。
「な、な、何なんですか、一体っ!」
「……いや」
「いや、って……」
 何か変なにおいでもしたのかと、慌てて自分の髪を一束とり鼻に寄せる。しかに予想とは裏腹に、ふわ、とかすかに甘いような香りが鼻を掠めた。肩に鼻を近づけると、先ほどよりしっかりした香りがする。

 は僅かの間香りの正体を考えていたが、ふと思いつくと、すっきりした顔でアメティストスを見た。
「スイセンですね」
「ああ……」
 なるほど、とアメティストスが小さく呟いた。
「今日、何故かオルフがスイセンを山ほど抱えていて。要らないというのに俺に押しつけてきたんですよ。きっとそのときに」
 困りますよねえ。苦笑しながらは髪に触る。自分が鼻を近づけてやっと分かった程度なのだから、彼は恐ろしく鼻が良い。
「あいつにスイセンか。似合わん事もないか」
「はは、それ本人に言ってやってください」

 床に散らばったパピルス文書を拾い集めながら、はふとなんで彼はあの香りに反応したのだろうと思う。奴隷軍をまとめあげる将軍閣下にも花を嗜む気持ちぐらいはあるだろうが、あれは――有無を言わさず髪を引っ張られた件についてだ――ないだろう。引っ張られた髪の根元がまだ僅かに痛い。
 いくらかまとめたパピルスを机の上で揃える。がスイセンだと言ったとき、アメティストスの顔は僅かに変化した。もしかしたら、オルフやシリウス、よく側にいる者は気づいたかもしれない――気づかないかもしれないが。そのぐらいの些細な変化だったが、確かに表情が和らいだ。
 は幼い奴隷時代の彼から今までの彼しか知らない。生まれてからどういった経緯で奴隷になったのか、そしてその間に何が起こったのか等は尋ねようとはせず、そして彼も話そうとはしなかった。無用な検索は自身も嫌いだった。
 だからきっとその時の暖かな思い出を思い出していたのだとは心の中で決定づけた。

 崩れた山が再び山となり、アメティストスが手を動かし始めた。は申し出通り、部屋の一角と椅子を借りて書類処理を手伝い始める。
 そこでオルフの竪琴の音が聞こえなくなっていることに気づいた。山ほどのスイセンを抱え、心底嫌そうにしているオルフを思い出してしまい、はかなり必死で笑いをかみ殺した。
 日がほとんど落ちかけているため、明かりの少ない部屋は薄暗い。処理を始める前に、は幾つか明かりを増やした。改めて椅子につこうとすると、後ろで木の軋む音がした。

 アメティストスに名前を呼ばれる。振り返り、はい、と返事。
「さっきは悪かった」
 薄暗い部屋の中、紫の瞳が明かりを受け静かに揺らめいていた。小さく微笑を浮かべ、頭を振る。
「いいえ。何をされるのかと心底心配しましたけど――」
 一旦そこで言葉を切ると、悪かったな、と不機嫌そうに眉をひそめ返される。
「別に構いませんよ。さあ閣下、さっさと書類を始末しないと眠れませんよ!」


up 2008/11/20
死と嘆きの〜の時にはいたと思われる主人公。その後ずっとエレフの金魚の糞。
ともかく、毎度の事ながらタイトルが思いつきません。誰か……