揺れて揺れて辿りつく先

 海鳥の啼く声が聞こえ、帆は風を孕み大きく膨らんでいる。
 エレフとは船上にいた。海面を滑るように飛ぶ海鳥の何羽かが頭上ぎりぎりを掠め上昇する。大きな波もなく、穏やかな海だった。

 あの忌々しい嵐で離れ離れになったミーシャを探すため、2人はレスボス島を目指していた。ミロスの助言に従い、陸路ではなく海路で島を目指す。しかしレスボス島へと行く船は多くなく、小さな港で足止めを余儀なくされた。
 先日、船員で欠員が出たためその代わりとして、という条件付きであったが、運良く無償でレスボス島へと向かう船に乗り込むことが出来た。
 船員の手伝いをいうことで柄にもなく身構えていた2人だったが、実際の所は予想を遙かに下回るものだった。そもそも大きな船ではなかったから、大方のことは玄人達が手早く済ませてしまう。朝方出港してから、太陽が真上に昇る頃には随分と暇を持てあましていた。

 はゆらゆらと揺れる水面、そして船体に当たって白く弾ける波を船から身を乗り出して見ていたが、口を押さえ身を引く。
「大丈夫か」
 人懐こい海鳥を指先に止まらせながら、けれど視線は彼に向けずエレフが尋ねる。
「調子、乗りすぎ、た」
 うぷ、と青い顔をして口を押さえる。後ろから「吐くなら海にしろよー」という、船員の冷やかしが叫ばれる。もしもこれがいつもの彼ならば、振り返って「そんなことない」の一言でも返しただろう。が、今は何も言えず空を仰ぐ。
「全く……何してるんだよお前は」
 髪を啄みかけた海鳥を空へ帰し、上げたその手での黒い髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。揺さぶられ、わずかに顔を青くしたが恨めしげに目だけエレフへと向ける。なんでお前は平気なんだ、と目が語っていた。自らがかき混ぜた髪を手櫛で大雑把に整え、そう言われても、と小さく肩をすくめる。
「寝てればいいだろう? 少しは楽になるはずだ」
「そう、する」
 船員達の邪魔にならないよう、いくらか端に寄ってからその場にごろりと横になる。枕代わりに手荷物の入った麻袋を引き寄せ頭の下に置く。思いの外高さが丁度良かった。
 目を閉じて尚大きく揺れる船に幾らか抵抗があったが、側に腰を下ろしたエレフがゆっくりと頭を撫で始める。その感触に確かに癒されながら、ゆっくりとの意識は落ちていった。

 さらさらと指の間を黒い髪が抜けていく。その手を止めずにエレフは、いつの間にか規則正しい呼吸を立て始めた彼を見る。自分より幾つか年上のはずなのに、なんと寝顔の幼いことか。
 船に乗るのも海を見るのも2人は初めてだったが、エレフよりもの方がはしゃいでいた。海水に足を浸しきらきらした目で振り返り、感激の声を上げたのが強く印象に残っている。
 立ち寄った港町が目的のレスボス島まではなかなかに遠く、到着予定は海の様子で大きく左右されるという。しかし今のところ天気は良かったし何より大きな波も見ていない。順調に進むだろうとエレフは予想していた。
 ピィ、と甲高い鳴き声を上げながら海鳥が頭上を飛び回っている。青く澄んだ空に、その白い翼はとてもよく映えていた。船の縁に肘をかけ空を見上げると、暖かな陽気と穏やかな潮風が心地よかった。

 太陽が真上から幾らかずれた頃、むくりとが身を起こした。寝ぼけ眼を擦りしばらくぼうっとしていたが、やがてゆっくりと視線をエレフに移す。エレフも彼に視線を向け、ぎょっと目を剥いた。
「お……はよう、
「……何、今の間」
 訝しげに眉を寄せるの頬には、枕代わりにしていた麻袋の布目がくっきりと付いていた。それに気づかない彼は、エレフの不自然に間の空いた言葉に首をかしげる。
 訳が分からない、とあたりを見回すにエレフは小さく笑った。
「だから何だよ、もう」
「……頬に麻袋の痕」
 左の頬を指さされ、そこへ手をやると、確かにざらざらした痕の感触。布を成す糸の太さの違いまで分かってしまうほどの、見事な転写ぶりだった。
「うわっ! 最悪っ」
 擦って消えるものではないと分かっているが、は手の平でごしごしと擦る。

 が目覚めるのを待っていたかのように、収まっていた海鳥の飛行が再開される。一際大きく羽ばたきの音が聞こえたかと思うと、あれほど船の周りを飛び回っていた海鳥たちは皆同じ方向へ飛んでいく。抜け落ちた羽が空に舞い、それが空と海の風景にひらひらと舞い落ちる様はとても美しかった。
「……どこまで行くんだろうな」
 それを眺めながら、ぽつりエレフが呟く。地上のしがらみから抜け出すように羽ばたいていく鳥たち。彼らを見る紫水晶の瞳に憧れが浮かんでいるのをは見た。
 彼らとて束縛された自由の中にいる。どこまでも飛べるわけではないのは分かっているだろうが、それでも大空を飛ぶ彼らに憧れを持つのは当然だろう。幼かったあの頃もそんな思いは強かっただろうが、もしかしたら今も同じような強さで思いを馳せているのかもしれない。
「さあね。もしかしたら、俺たちと同じ所かも」
 は立ち上がり伸びをする。ふと、酔いが収まっているのに気づく。一安心と安堵に胸をなで下ろし、船の縁に腰掛けた。潮風が彼の髪を撫でていく。無意識に、跡の付いた頬に触れる。幾らか消えてきているようだった。
「そうだ、エレフはどんな人だと思う? お師匠の旧知、って」
「さあな……。でもきっとすごい人だろうとは思う」
 エレフは甲板に腰を下ろし、右に垂れる三つ編みを弄る。緩んでいた髪紐をを結び直そうと解く。
「すごいって、どんな?」
「様々なことに精通してる、とかな」
「なるほどね」
 結び終わった三つ編みを弾きを見上げる。彼は海の彼方を見ていた。未だ見えぬレスボス島を見据えているように見えた。
「エレフ、」
 小さな呼びかけにエレフは反応せず、代わりに立ち上がる。
「絶対、ミーシャを見つけような」
 の朱い瞳が揺らぐ。脳裏にまざまざとあの日の事が蘇り、ずきりと胸の奥が痛んだ。
「……ああ」


up 2009/04/11
ミーシャを探して。
船とか盛大に捏造ですすいません