記憶を融かして

 今日は天気が良かった。太陽はさんさんと気持ちのいい光を降り注ぎ、それを受けて植物たちが眩しいぐらいに輝く。俺……は、友人宅へと向かいながら、穏やかな陽気に目を細めた。
 いい感じにへたってきたバスケットには、もらい物のタルト(昔みたいにひとりでホール食いは出来なくなったから、お裾分け)や旬の果物が入っている。というのは、まあついでだ。一番底にはワインボトルが3つ並んでるものだから、随分重い。
 街を抜け、郊外へと移る。ああ、ほんとにいい天気だ。着いたら無理矢理にでも引っ張って、少し遠出でもしすると気持ちいいなー。


 大きな広葉樹が隣に立つ家が見えてきた。あれが、目的地。今日は確か仕事が休みだったはず。それにこの時間帯なら絶対家にいるという、丁度いい具合を狙ってやってきた。これで外れてたら、俺、しょげる。
 ちょっとだけどきどきしながらドアを叩く。すると可愛らしい足音が聞こえる。――あーよかった。
 控えめに開かれるドアからひょっこり顔を出したのは、アイスブルーの瞳の女の子。ちゃんと手入れされてる髪は前に流している。
「こんにちは、エトワール」
 にこり微笑んで先に挨拶。俺だと分かったのか、彼女もぱっと微笑む。
「こんにちはさん。お父さーん、さんが来たよー!」
 部屋の奥に向かって叫ぶエトは、昔に比べて随分たくましくなったと思う。
「エトワール、そんな叫ばなくってもいいって。……やあ、プルーもこんにちは」
 足下にすり寄ってきた黒犬の頭を撫でながら、彼女にも挨拶。そこでようやく、ばたばたと派手に足音を立てながらこの家の主人が出てきた。
 プルーがすん、と鼻を鳴らし、エトワールは遅いと口を尖らせる。
!? 来るなら来るって連絡のひとつぐらい……!」
「はははは、いいじゃないの別に。久しぶり、レイ」
 袖を通しきれていない上着を被りながら、レイヨンは小走りでやってきた。こんなおっちょこちょいなヤツだっけ……。ともかく、俺は片手を上げて口角を上げた。
 前髪を後ろへ撫でつけるようになって、また印象が変わったように思う。けれど金髪と瞳の色は変わらないんだから、なんか変な感じがしないでもない。



「いやあ、しっかしエトワールも大きくなったね! すっかりお嬢さんだ。今年でいくつだっけ?」
 貸して貰ったナイフでタルトを切り分けながら、皿を並べているエトワールに尋ねる。
「あと数ヶ月で15です」
「へえ、15! 早いもんだ……」
 少し前まではレイの服にしがみついていたように思えるのに。時間の流れは本当に不思議だな……。
 すると隣でふふん、と自慢げに鼻を鳴らす音が聞こえ、そっちに顔を向ける。
「そーだろうそーだろう。なんたって俺の自慢の娘だ」
 ちょっとふんぞり返ったレイがにやにやしている。うわあ。親馬鹿とは正にこのことを言うんだな!
「やめてよお父さん……」
 恥ずかしいのかエトワールが赤くなる。いやあほんとにかわいいなーもー!
「こらレイ。エトワールが嫌がってるぞー」
 反撃できないのをいいことに、ナイフを持っていない手で頭を思い切り小突いてやる。バランスを崩しかけたが、体勢を直された。むっ。


 苺のタルトは随分と好評だった。今度作り方を教わりたい、とも言われてしまいました。俺が作ってないと言うとちょっと寂しそうにしたけれど、レシピを聞いてくると約束した。


 で、今はエトワールに髪を結われている真っ最中。別に俺は気にならないんだけど……さすが女の子。楽しげに櫛を動かし、髪を梳かれる。
 切るのもどこか煩わしく、なんだかずるずると切る機会を失って伸び続けた髪(さすがに前は切ってる)。もう、いい加減に切ってやろうか。でも切らない理由というものが小さく存在していたりする。
 俺が髪を切らない理由を知っているレイは俺を見て、小さく苦笑してきた。なんか小難しい顔でもしてたかな。
さん、終わったよ」
「ああ、ありがとう」
 思わず髪の結ばれた所へ手を遣ると、さすが、きっちりとリボンが結ばれていた。あれ、リボン結び?
「ははは、意外と似合うじゃないか」
「うるせい」
「ごめんなさい。リボン赤しか余りがなかったんだけど、良かったですか?」
 心配そうに眉を下げて尋ねてくるエトワール。赤。赤ね。一瞬目の前を懐かしい色が横切り、消えた。――暫く視て無かったな、そう言えば。
「うん、大丈夫。ありがとね」
 微笑んで、頭を少し撫でててあげる。嬉しそうに目を細め、そして足下にプルーがやってきたため下を向く。


「お父さん、プルーと散歩してくる」
「ああ、気をつけて」
 短い会話を交わした後、彼女らは外へ駆けていった。うんうん、元気はいいことだ。
「……いい子に育ったなあ」
 閉まったドアを見つめ、俺は呟く。
「どっかの誰かさんが過剰なまでに世話焼いてくれたからな」
「はははは、誰だろうな」
 俺だけど。
 時間はあったんだ、店はまだ続けていたけれど。(あんまりひとりで何もしない時間があると想い出してしまって怖かったから)
 ほぼ押しかけで、まだ幼児だったエトワールのお世話を手伝ったり。そう言えば、うっかり長居しすぎて泊まったとき、レイのベッドで寝てこぴっどく怒られたな……こころの狭いやつだ。


 レイはもういい加減ぬるくなってるだろうカップの中身をすすり、俺を見た。そして、ふっと口元を綻ばせた。だが、目が笑ってない。怖い。
「似合ってるよ。そのリボン」
 何を、言うかと思えば。
「そりゃあ、ありがとう」
 ポットに触れるとぬるかった。新しく入れ直そうと思い、ポットを手に立ち上がる。
「お前は見えてないと思うけどな、きれーなワインレッドだ」
「……そか」


 もう、随分前の出来事だ。俺も年を取ったし、あの事なんて少しは笑って話せるようになった。けれど普段意識していない分、ふと思い出したりすると、ああ、俺も若かったなあ、と懐かしく思う訳だ。……多少の心苦しさを伴って。
 そんな柔らかーい所をやんわりと、けれど的確に突いてくるレイが憎い。エトワールがいなくなったからって、調子に乗りやがって!
「もう何年になる?」
 レイが小さく首を傾ぐ。話が長くなりそうだ。温かい飲み物は諦め、テーブルにポットを戻す。
「……少なくとも15年は」
 いいながら、椅子に腰を下ろす。口に出すと、余計に長く感じる気がした。15年。赤ん坊が少女に育ってしまうほどの時間。
「お前も律儀なやつだな」
 呟くようにレイがいい、目を伏せ――いや、右腕に視線を向けていた。あいつに刈り取られたという右腕。もうほとんど痛まなくなったと随分前に零していた気がする。
「何が?」
「とぼるんじゃない。毎年、この日だけは必ず来るだろうが」
「――ああ」


 思い出すのが怖いんじゃない。けれどこの日だけはどうしても、どうしても思い出してどうしようも無くなる。脳裏が真っ赤に塗りたくられるという感覚。
 そんな時ひとりきりだった日には酒を死ぬほど入れるかでもしないと紛れない。
「別に、いいだろ。旧知の仲を温め直す機会でもある。ついでに、お前のお気に入りの追加も持ってこれるし」
 テーブルに肘を突く。そして俺の口から自嘲の笑いが零れた。
 大人しく"ひとりは寂しい"と言ってしまえば終わりなのに。取って付けたような理由なんて、レイにはお見通しだろう。それでも言い訳を言いたがるのは何でだろう。――プライド?
 かたん、と音がして顔を上げると、レイが立ち上がりポットを持っていた。
「俺、やるよ」
「お前は座ってろ」
 浮きかけた腰を戻す。新しいのをいれようとしているらしい。


、お前は……」
 背後から聞こえる、続かない言葉。珍しく声の調子が落ち込んでいるようだった。
「何」
「……」
 水音。暫くレイは答えない。
「お前はまだ、あいつの事が……その」
 言葉にし辛そうに濁す。水音が止まり、レイが歩く。生娘でもあるまいし、なーんでそんなこと言いづらそうにするんだか!
「好きかって?」
「ああ」


「……多分、まだ」
 と言ったが、少し考えてみる。
 少なくとも、あの頃のように行き場が無くて渦巻いていたような感情は、さすがにもうない。けれど、まあ命日にうだうだしてるあたり、未だにローランに縛られているんだろうか。
 そう思うと、まだそう言う感情があるんだな。と俺は再確認する。
「そうか」
 と、やけにあっさりした返答。もうレイの中で、自らの運命を狂わされた(だろう)男については完結しているんだろうか。

 会話が途切れた。水が熱湯に変わっていく音を背後に聞く。なんとこの時間の心地いいことか! うっかりするとうたた寝してしまいそうなほど、穏やか。
 やがてレイが温かいポットを手にテーブルへ戻ってくる。カップに湯気の立つ紅茶が注がれた。いい匂い。
「俺は、お前のことだからそんなに心配してるわけじゃないけどな」
 と、レイは自分のカップにも紅茶を注ぎながら言う。
「お前もさっさと嫁さん貰って子供つくれ。いいぞ、家庭があるってのは」
 何でもないような口調で言ってくれたがな、レイ。悪いけど、そんな簡単に上書きされるような代物じゃないんだよ。
「そか。でも、まあエトワールみたいな可愛い子だったらいいかも」
「やらんぞ」
「とらないっての!」


 なあレイヨン。
 俺はまだはっきりと覚えてる。
 あの赤い血の色、店に響く悲鳴、指先がさっと冷たくなる感覚。
 いつまでも過去に引き摺られっぱなしは良くないといつかお前が言ってた。
 色々やってみたけどうまくいかなくて。俺の意識の、俺でも気が付かないぐらいの奥底でずっと燻ってた。
 だけどこうしてたまーにだけど、ふたりと一匹で他愛もない話に花を咲かせる事に救われてた。
 この日に来る度に、少しだけ軽くなる気がする。


「レイ」
 温かな紅茶にさえ癒されながら、けれど俺はきっと真剣な顔だったと思う。レイが無言でカップをソーサーに戻す音が聞こえる。
「また来ていいかな」
 来年のこの日も、そうじゃない日も。
 レイは笑っていた。いや、微笑んでいた方が正しいか。最近はエトワールにばかり向けられていた、暖かな眼差しと微笑み。そして、レイは頷いた。
「もちろん。俺やエトじゃあ出来ないこともやってもらわなきゃいけないしな。それに、なんだ、
 再び語尾を濁らせた。俺は言葉を待つ。
「俺たちは友人じゃないか。昔からの。――いつでも大歓迎だ」

 あれほどまでに、レイが頼もしく見えたことは今までになかった。
 うっかり俺はその後涙してしまい(年を取って涙腺がやけに弱くなった。年は取るもんじゃないな)、あたふたとするレイを見て吹き出してしまった。
 持つべきは友人だ。心の底から思う。


「いい天気だな。この調子だと、洗濯物がよく乾くぞー」
 場所を外の芝生に移し、いい歳した男二人が並んで座っている。さんさんと降り注ぐ太陽の光にレイは目を細め、すっかり主夫じみた言葉を零す。
「そうだなあ、こういう天気だとよくビールが出るなあ」
 俺は青い芝生に寝転がっている。温かい。眩しい。
「店の方はどうだ。順調か?」
「まあね。最近は常連も増えて賑やかになってるよ」


 心地よさに目を閉じる。そろり、と睡魔が足音もなく近寄ってくるのが分かった。
 ああ、至福の時。


 ぽん、と額に手を置かれ、落ちかけていた意識が浮き上がる。髪を手櫛で梳かれるのは、嫌いじゃない。
 ゆっくりと暇つぶしのように俺の前髪を弄るレイ。


 こうやって少しずつ幸せな記憶でそっと塗り重ねていったら、ローランの苦い記憶もいつか甘く柔らかな物になるのだろうか。
 もしそうなったら、俺は誰かを愛せるだろうか。――未来の事は誰も分からない。
 他愛もない言葉遊びを繰り返しながら、俺は過去をゆっくりと融かしていく。笑って思い出せる記憶にするために。



up 2009/06/04
Nivose後の話でした。ふたりとも年はおっさん。金髪はいいお父さんになると思うんです。