「さっ、Salut」
男は小さく微笑む。あれ、これ違ったっけ? と不安になりかけていると、男は目を細め口を開いた。
「君は何か悩みを抱えているようだね」
「へ?」
「案内もつけずに一人でこんなところに来るとは、随分冒険したのだね。それほど悩みが大きいと言うことか……」
勝手に話を進めていく男に、は訝しげな顔で見上げている。ふむ、と口髭を撫でた彼はの視線に気づき失礼、と静かに頭を下げた。
「いやはや先走って申し訳ない。私はサヴァンと呼ばれている者。さて、君の名前は?」
「……」
ぽつり名前を呟いてから、しまったと後悔する。
だって、激しく胡散臭い。見た目はそうでもなかったが、口調がとても特徴的だった。特に抑揚の付け方が個性的で、それが胡散臭さを醸し出しているように思えた。
「では、。――私でよければ君の、話し相手になりたい」
なんだこいつ、とが思ったのは言うまでも無かった。
サヴァンはゆっくりとの隣に腰を下ろすと、足を組みが話し出すのを待つように様子を伺ってくる。
胡散臭い、怪しいと訝しむ反面、自ら話を聞こうという彼に、はぽつりぽつりと胸の内を明かし始めた。いい加減、ひとりで悶々と悩んでいるのにも疲れていた。
(3人の前では気まずくなりすぎて話せなかったことを、なんでこんな初対面の、しかも胡散臭い奴に……)
(俺、すごい嫌な奴だ)
話してはいけないと思うのに、けれども話し出すと堰を切ったかのように言葉が止まらなかった。
「帰りたい。けど帰れないんです。――ああもう、どうしたらっ……!」
は膝に肘をつき、顔を手で覆う。
吐き出したいことを吐き出した心は確かに軽くなっていたが、代わりに自己嫌悪と罪悪感が重くのしかかっていた。
少々遊ばれたこともあったが、彼らは自分にとても良くしてくれている。理由も分からずこの場所に迷い込んだ自分を、それこそ遠慮したくなるぐらいに。
けれど、どうだ。自分勝手な感情で一方的に交流を途切れさせている。盛大に心配させているかもしれない。……呆れて見損なったと思われているかもしれない。
打ち明けるという行為を、その"もしかしたら"が厳しく邪魔をする。もしかしたら、と考える結果が現実であるかもしれないということがとても恐ろしかった。
そして、あと一歩を踏み出せない自分をは激しく嫌悪していた。
「ふむ。故郷が恋しいのだね。確かに、強い希望が叶えられないというのはとても苦しいことだ」
どんな事にせよ、真摯になって相づちをうち、聞いてくれる存在がいるというのはうれしいことだ。その点だけに関しては、はサヴァンの存在をありがたく思っていた。
「……彼が物語を見つける意外に、君が外へと出る手段があるとしたら、君はどうするかね?」
うずくまるの肩が跳ねた。ゆっくりと体が起こされ、信じられない、という顔でサヴァンを見る。
「ある、んですか?」
「無いとは、言い切れんね」
「それは――」
「ただし」
言葉を遮り、サヴァンは人差し指を立ての眼前に突きつける。
「それ相応の覚悟と危険と、犠牲も必要になる。そしてそれは必ず、ではない」
突きつけられた指を見、サヴァンを見る。
の瞳が揺れていた。しかし彼が出した手札は、信用するには些か不確定要素が多すぎた。
信じてよいのか悪いのか、彷徨う思考のままはサヴァンを見つめ続けている。
「もう一つ方法があるというのは、本当、なんですか?」
サヴァンは意味深な笑みを浮かべただけで返答をしなかった。
あるのか無いのか、真実なのか虚実なのかさえ、分からない。
(――なんだ……? なんか、怖い)
背筋を、小さな何かが駆け上がっていく。どくん、と急に自分の鼓動が大きく聞こえる。
分からない。分からない。
けれどサヴァンは答えを待っているようだった。組んだ足の膝に手を重ね、微笑を浮かべたままを見ている。
答えを出せないままでいると、サヴァンはふいに表情を崩し手を組んだ。
「まだ時間はあるのだからゆっくり考えるといい。それから、私からの助言だ。――やはり、素直になった方がよいのではないかな?」
ズバンッ
突然の大音量。驚愕にびくりとの肩が跳ねる。反射条件のように音の発生源を見ると、館の中へと繋がる扉が開け放たれていた。そして先ほどの音を発生させたであろう人物が、乱暴に開けられたドアの前に立っていた。
「――イヴェール」
「サヴァン」
彼は靴音も高く、コートの裾を翻しながら近づいてくる。サヴァンの前で足を止めたかと思うと、どこか冷ややかな笑みを浮かべた。
「まさか彼に変な事を吹き込んだりしてないだろうね?」
「おやおや、久しぶりの再会だというのに開口一番がそれかね。全く……」
「茶化さないで」
そんなやりとりが行われるすぐ隣。は口を半開きにしながら、やってきたイヴェールを見上げていた。
いつもの柔らかな雰囲気は何処へいったのか、今は冷たく刺すような雰囲気を纏っているのだ。驚きしかない。
ぽかんとするをサヴァンはちらりと横目で見、すぐにイヴェールへ視線を移す。
「こらこら、君があんまりにも勢いよく質問する所為で彼が驚いているじゃないか」
「ごめんね、すぐ終わるから……。サヴァン、ちゃんと質問に答えて」
「あ、その、えと、俺ちょっと外してるから、ふたりでごゆっくり」
慌てて立ち上がり噴水の裏側へ小走りで駆けていく。小さく制止の声が聞こえたが、構わずに歩を進めた。
(知り合いだったんだ……いや、まあこの屋敷の中にいるんだったら、そうだよなあ)
冷えた指先を擦り合わせて温めながら、ふたりの口論が終わるのを待つ。背後からは、噴水の水が落ちる音に混じってふたりの声が聞こえている。どうやら言い合いは白熱しているようだ。
(イヴェールも、あんな顔するんだ)
普段とはがらっと印象の違った表情を思い出し、小さく笑う。今まで柔らかく微笑んでいるような印象しか無かった所為か、とても新鮮に思えた。
しかし何故来たのだろう。
自らが自らに問いかけた疑問であるのに、は頭の一部がすうと冷たくなるのを感じた。
「」
ふいにイヴェールに名前を呼ばれ、振り向く。困ったように笑いながら彼が近づいてくる。
「ごめん、驚かせた?」
「い、いや、大丈夫……」
有無を言わさず手を取られると、先ほど彼が激しく開け放った扉へと引っ張られる。噴水が幾らか背後へ遠離ったところで、まだベンチにサヴァンが座っていることに気がついた。歩調を早め、イヴェールと並ぶ。
「イヴェール、サヴァンは?」
「ほっといて大丈夫」
そっけない返答に、は何かあるなと予感する。もう一度ちらりと後ろを見ると、サヴァンは暢気に手を振っていた。
up 2008/12/04 加筆修正 2009/07/01