安堵のためか息を詰めていたからかは分からなかったが、イヴェールが大きく息を吐く。そしてを見た。睨んでいるわけでも、ましてやイヴェールが彼を責めるような成分などこれっぽっちも存在していなかったが、はその視線に小さく顎を引いた。
「……何?」
固い声だ、と言葉を口にしながらも思う。鼓動が僅かに早くなるのが何故か感じ取れた。
「サヴァンに何かされなかった? ほんとに大丈夫?」
口早に、身を乗り出すようにしてイヴェールは尋ねる。
「大丈夫」
会話はしたが、なにもされてはいない――と、屁理屈を心の中で呟く。
しん、と静寂が突如降りかかる。
は床に視線を落としたまま動かない。イヴェールは、の様子を伺って動かず口も開かない。僅かに扉を叩く風の音が聞こえるだけだった。
やっぱり何かサヴァンにされたんだろうかと、ふいにイヴェールは不安に駆られる。
「ねぇ、。話が――」
「ごめん」
ようやくイヴェールが話を切り出したかと思うと、は視線を合わせずまっすぐ廊下を歩き始めた。肩に手をかけようと上げたイヴェールの手が驚きに揺れる。
「ちょっと、!」
すぐさま早足でを追う。明らかに逃げている。何故逃げるのか、イヴェールにはその理由が全く分からなかった。短い時間だけだがその理由を考えてみるが、考える材料が少なすぎてサヴァンが原因としか考えられない。
「そっ、そっちからじゃ戻れないよ!」
とっさに口から突いて出た言葉だったが、はぴたりと止まるとすぐに踵を返しこちらに歩いてくる。
ここへと来てしまったのは迷いという名の偶然ということは確かだ、と彼の中で決定された。
イヴェールはすれ違いざまにの腕を掴んだ。本当ならもっと穏便に行きたいところだったが、あまりにも彼が相手をしてくれないため、少しばかり強引に。
腕を引かれこちらを見たの表情は悲しさと怯えが入り交じっていた。反抗する声は微かに震えてさえいた。
「離せ、イヴェール」
「嫌。ねえ、なにがあったの。僕には話せないこと?」
面と向かって言葉を投げかける。は黙り視線を反らした。
「僕に話して」
イヴェールの腕を掴む力が弱まる。そうして彼はちょっと困ったように眉を下げた。
「そうじゃなきゃ、分からないよ……。ね、お願い」
猫足の椅子に腰掛ける。は一向に視線をイヴェールへと向けようとはしなかった。
ここまであからさまに避けられているというのは悲しかった。――今まで自然に接して来たが故、尚更に。
「、なんで避けていたの?」
今までが逃げていた事をまっすぐに言葉にする。もう逃げてしまいたかった。彼の制止を振り切ってこの部屋から駆けだしてしまえば、こんな辛い思いはしない。――それはひとときの安息でしかないけれど。
「それは……」
ぽつり呟く。けれどその先を紡ぐ事はできなかった。せめてここに視界を遮る壁があれば、と切に思う。
促すこともなく、ただイヴェールは待っていた。
何もせず、ただ待つイヴェール。けれどいくら待っても彼は口を開こうとしない。イヴェールはにそっと言葉を投げかけた。
「何か、気に障るようなことでもしたかい?」
は首を横に振って答える。
「……ヴィオレットとオルタンシアのおふざけかい」
気になっていた事を尋ねるが、先ほどと同じようには首を横に振る。
「じゃあ、何だろう……」
僅かに眉を寄せ、イヴェールが考え込む。
ふとが視線を上げた。イヴェールの視線は床に落ちているため、目は合わない。
真剣に悩み考えるイヴェールを見てのこころがざわめいた。そしてサヴァンの言葉が頭の中で再生される。
(――やはり素直になった方がよいのではないかな?)
言ってしまうのが怖かった。どうしても怖かった。寧ろ言ってしまった後が恐ろしかった。――拒絶されるのが嫌だったから。
握り締め続けた手がいい加減に痛かった。拳をゆっくりと解きながら、息を細く吐き出す。緊張のために指先は冷たくなり、震えていた。
(――素直になった方がよいのではないかな?)
言葉と共に向けられたサヴァンの表情までもが脳裏に浮かぶ。あの時サヴァンは優しく微笑んでいた。
(俺は……言わなきゃ、いけない、んだよな)
心の内を明かしたところで外へと繋がる道が開くわけではない。けれど言わなくてはいけなかった。心底から心配してくれていた、彼らのために。
サヴァンが言葉を通じてそっと背中を押してくれているような……そんな気分だった。
(Merci)
「っあのね。本当に、何でも言っていいんだからね! だから」
勢いよく顔を上げたイヴェールは、じっと見つめてくるの視線を真正面から受け止めた。続きを言いかけた口を閉じる。
「イヴェール、ごめん。本当に、ごめん」
視線を動かさずには謝罪する。
「3人は俺の事心配してて、くれたのに」
イヴェールもから視線を反らしはしなかった。今にも泣き出しそうな表情でゆっくりと紡ぐ言葉を、一つでも聞き逃すまいと耳を傾けていた。
「ほんとは、帰りたかった。帰ったって俺を待ってる人なんて誰もいないし、俺自身、執着してるとかそういうのは全然思わなかった。けど、やっぱり帰りたいんだと思う。……最近、付き合いが悪くなってたのは、ホームシックになってたから」
馬鹿だよな、と自嘲するをイヴェールは否定する。
「暫く部屋に引きこもって、あれこれ考えて、ホームシックだって分かったら急に恋しくなって。さらに閉じこもって……戻れないからどうすることもできなくって」
は小さく視線を手元に落とし、未だ震える手を組み再びイヴェールを見た。
「気づいたら、みんなへの……接し方が分からなくなって。俺自身付き合い悪かったと、思う。だから……嫌なヤツだと、嫌われてるんじゃないかと思ってた」
「っ、そんなことない!」
顔色を変え声を荒げたイヴェールを見て、は笑った。笑って、ぽろりと涙が一筋頬を滑り落ちた。
「うん、あり、がとう。ごめん、俺が、あんまり臆病で……変な、勘違いばっか……するから、イヴェールに迷惑、かけた」
一度堰が切れてしまうと、涙は次々に溢れ出た。何も言わずにイヴェールはハンカチを取り出し、へと差し出す。
「こっちこそ、話してくれてありがとう、」
差し出されたハンカチを受け取り、拭う。
「怖くって、怖くって……遠回しにしたって、なんにも、なんっ、ないのに。俺、馬鹿っ……ごめ、イヴェ、ル」
震える声を絞り出して言葉を続ける。今言っておかないと、後からでは言えないような気がした。瞼にハンカチを押しつける。それでも涙は止まらない。
イヴェールが立ち上がる。のすぐ側まで歩いていくと、泣きじゃくる彼を抱き寄せた。
「言い訳じみてしまうけれど……僕はあんまり人と関わったことがないんだ。だから、僕にも非はあったと思う」
腕の中に収まったの黒髪を撫でる。自分とは正反対の色は素直に美しいと感じた。
「正直、今でも何をすればいいのか分からないよ。言いたいことがあれば言って。……泣きたいだけ泣いたら、ふたりの所に行こう。温かいお茶を入れて貰って、ゆっくりしよう」
が確かに頷いた。
イヴェールはせめてが泣き止むまで、と彼の背を撫で続けた。
「まあ! 様、目が真っ赤ですわ!」
「大変ですわ! すぐに冷やす物を持ってきますわ!」
ようやくも落ち着き、双子達が待つ部屋へと戻ってきたのは時計の針が優に二回転する頃だった。イヴェールに手を引かれ見慣れた場所に戻ったは、真っ先に双子達に騒がれた。
ヴィオレットに手を引かれソファーに腰を下ろし、水で冷やした布を持って来たオルタンシアに動きを封じられる。火照った目元にその冷たさは心地よかったが、それよりも側にいるだろうイヴェールが気になっていた。そっと布をずらすが、双子は甘くなかった。
「ダメですわ様!」
「様はゆっくりしていてください!」
「こういうのは早めの治療が大切なんですわ!」
「私たちに任せてくださいですわ!」
一抱えほどもある大きなクッションを押しつけられ、ずらした布もきっちり直されてしまう。
「まあ、ふたりとも。の様子は僕が見ておくから、お茶の用意お願いできないかな」
助け船を出したイヴェールに、双子はあっさりと従った。仕方ないですわ、と言い残し部屋を出ていく。視界が遮られているには、遠離る足音とドアの開閉音で双子が出て行ったことを知る。
「全く、いつになく過保護だね」
すぐ近くでイヴェールの声が聞こえたかと思うと、瞼を覆う布が取られた。ぱっと明るくなった視界、苦笑するイヴェールが見える。
「大丈夫? 痛むかい?」
「痛くはないけど……腫れぼったい、感じ?」
目元にやった指で擦りそうになり慌てて手を下ろす。
「ふたりの言うとおり、冷やしておいた方が良さそうだね」
イヴェールはの隣に座り、布を手渡した。それを受け取り瞼に当てていると、イヴェールがため息をついた。落胆や失望等の為ではないそれを、は何度か目にしていた。
「僕も、色々と話さないといけないね。が頑張って話してくれたんだから」
ね、と小さく笑うイヴェールはどこかいつもと様子が違うように思えた。には、彼が無理をして笑っているような気がしたのだ。
「無理に話さなくってもいいって」
イヴェールが口を開こうとしたが、が先に言ってしまう。けれど彼は首を横に振る。
「いつかは話さなきゃいけないと思ってたから。今が時期なんだと思うんだ」
二度ノックされた後に、お茶の一式を乗せたカートを押しながら双子が戻ってきた。
は冷やしていないことに注意を受けるかなと一瞬どきりとしたが、漂う空気を読んでか双子は静かにテーブルへと近づいた。焼き菓子の乗った皿、砂糖壺、ミルク、良い香りの紅茶が注がれたカップなどがテーブルに並ぶ。
準備を終えると、双子はふたりの正面にあるソファーに座った。そして硝子の様に色鮮やかなな瞳でイヴェールを見た。
「どうして僕たちがこの屋敷にいるのか。何故君は此処から出ることが出来ないのか。――その理由を」
up 2009/06/05
一段落ですが、まだまだ。