Prairial

 ざわざわ、ざわざわ。市場はいつもの騒がしさを孕んでいる。一日分の食料を抱えて家に戻ろうと(といっても俺の家はあの酒場だ)、人の波に逆らいながら歩いていく。
 あたりをちらちら見ていると、武装した厳つい男達がまれに紛れている。先の戦争が終わったとはいえ、まだそれから抜けきっていないのだと実感するときだ。まあ大体忘れがちだけれども。
 前を見ていなかったため、誰かとぶつかってしまった。慌てて前を向くが、ぶつかったと思われる男はこれっぽっちも心配していないらしく、前方へ野次を飛ばしている。狭い路地いっぱいに人が固まっているため先に進めない。いったい何やってんだよ。まあろくな事でないのは、確かだな。

 抱える荷物を死守しながら人垣を進んでいく。ああもうっ、だれだよこんな騒ぎしてるのは!
 端に寄ろうとすると一気にテンションの上がった男の大声が耳元で聞こえた。突然の大音量に思わず硬直。キーン、と耳鳴りがする。
 手で耳を押さえるが、そんな事をしている間に今度は後ろから空気の読めないやつが俺の背中を押した。
 しかも、だ。バランスを取ろうとして足を前に出そうとしたら最低に空気の読めないやつの足に引っかかった!
「あ、う、ちょおおおおお!?」
 俺、大ピンチ。これはもう倒れるしかない。
 食料は守らなければ。だってそうしないと今日一日の食べるものがなくなってしまう。

 とか思いながら、あともうちょっとで突破できた人垣を俺は倒れながら突破していく。ばらばらと、抱えた紙袋から小袋や果物が落ちていく。
 地面との正面衝突を避けるため体をひねる。が、遅い。ああ、これは肩から落ちる――肩も背中も、どっちにせよ痛いんだよなあ――

 予想していた肩への痛みは襲ってこなかった。代わりに、いくつもの容赦ない視線が体に刺さる。
 とてもとても嫌な予感を感じながら、瞑っていた瞼を上げる。

 赤。それも血が乾いたような赤。
「大丈夫か」
 上から降ってくる低音。それにはっとして顔を上げると、ローランがいた。
 俺を支える腕に気づき、慌てて立ち上がる。手持ち無沙汰になった腕をローランはすぐに下ろした。
「わ、悪い」
「いや」
 まさかこんなところで店の常連に会うとは思ってもいなかったよ!! 今日は最悪だね! もう泣きたい。

「何だ、お前のツレか?」
 地面に転がる荷物を拾おうとしゃがみ込んだところで、声が聞こえた。声からしてガラ悪いのが丸わかりだ。最近そういうのと関わりが多くなって嫌になってくる。
 調味料の入った小袋を抱える紙袋に入れる。いや、連れではない。ただ単に店の常連と店員なだけなんだけれど。どういったらいいのやら。
 それはたぶんローランも同じだったらしく、何も言わず男と対峙している(荷物優先していてよく見えないけれど)。
「まあどっちでもいいな」
 最後の一つを紙袋に戻す。殺気。放たれた方を向くと、体格の良い禿頭頭の男。ごき、と拳をならす。わあ、俺喧嘩って嫌いなんだけど!
 そうだ、ローランに会ってすっぽり忘れてた。この人垣はこの二人が喧嘩していたからなのか。けれどもローランが絡まれたからと言って、その喧嘩を受けるとは思えない。
 男の言葉に、周りが一斉に沸き立つ。

 じわりとにじみ出た殺気に鳥肌が立った。素晴らしく純度の高いそれ。その発生源は――俺の隣。
「ろ、ローラン?」
 そっと見上げる。彼の口元はこれ以上ないほど喜びに歪んでいた。鳶色の瞳は、もう獲物を前にする肉食獣か猛禽類のもので。
 ――そういえば少し前に、その片鱗を見かけたような気がする。
「そこにいろ」
 と俺を残し、男に近づこうとするローラン。
 片腕なのに。片眼なのに。それでもあんたは戦闘が(というかこういう争いごと?)が好きなの!?

 じゃ なくて!

「ローラン!」
 ばっと立ち上がり駆け足でローランに近づく。煩わしそうにこちらを向く彼の腕を掴み、問答無用で引き摺った。
「離せ!」
「嫌だ!」
 問答無用で人混みをかき分ける。店と店の隙間に入り込み、狭い裏道を走る。もちろん腕は離さない。
 背後からはいくつもの怒声が聞こえる。嫌がっていたローランは、今は抵抗することもなく着いてきてくれている。
 幾つも角を曲がり、路地を抜けた先でようやく俺は足を止めた。ここまで街の入り組んだ裏道を網羅しているやつはいまい。

 さて、まずは謝罪からしなければ。俺は一つ息を吐き、振り返る。
「ローラン、その、さっきは悪か」
 ゴヅンッ。

 一瞬目の前が暗くなったかと思うと、すぐに晴れる。背には冷たい地面の感触。あれ、何で俺ローラン見上げてんの?
 不意にローランがしゃがみ込んだかと思うと、胸ぐらを掴まれ無理矢理に引き摺り上げられ、壁に押しつけられる。
「ん、ぅ」
 首を圧迫された。呼吸が若干苦しい。
「はな、せっ」
 服を握る腕に指を立てるが、一向に剥がれる気配がない。なんて力だよ!
 ローランの顔は前髪がほとんど覆い隠してしまい表情が分からない。しかもなんで殴られてこんな事になっているのかも分からない!
「ロー、ラン」
 ああほんと分からない。なんでキレてんだよこいつは! じんじんと殴られた頭が痛み始める。

「何で止めた」
 いつもより遙かに低い声。怒気が含まれたそれに、さらに殺気も上乗せされていることに気づく。ローランは唐突にぎり、と首を絞める(直接は締めていないはず)手に力を入れた。
 痛い。苦しい。言葉を紡ごうにも息が吸えない。ああ、頭に血が――
「何故だ!」
 耳元で怒鳴られたって……お前な……苦しくって言えないよ……。

「腕、離し……言え、な」
 ほとんど声量もないような呟き声で意志を伝える。ちっ、と舌打ちが聞こえたかと思うと、急に腕が放された。つま先立ちだった俺はバランスをとれずその場にへたり込んでしまった。
 喉を押さえ、盛大に咳き込む。
「げほっ、げほ、っ、うぇっ……!」
 う、胃の物が出そう。なんにも入ってないけど! 手元に転がる今日のデザート(よく熟れたオレンジだ)が目に入る。何度も落ちたお前に、何も罪はないんだよ。

 呼吸を整えて上を見る。鋭すぎる眼光がまっすぐ俺を射貫いている。尚もその瞳は怒りと殺気のふたつが居座り、はっきり言って、とても怖い。背筋が凍るような、今すぐ逃げ出したくなるような。
 今更だけど、俺は踏み越えてはいけない一線を越えてしまったのかもしれない。
 こいつがこんな激しく感情を表に出すとは思わなかった。いや、俺が知っていたのはあくまでも表面という訳か……。
 隻腕に隻眼に、殺気。絶対ローランは戦争に赴いていた。そうだ、そうなら腕も目も、戦場で負わされた傷という事で納得のいく理由だ。

「何故だ」
 再三の質問。
 何故? 俺、なんで止めた?
「そりゃあ……俺は喧嘩嫌だし。巻き込まれるのも」
「お前には関係のないことだろう」
 即刻反論が返ってきて俺は顔を顰める。確かにそうだけど。俺とあんたは、ただ酒場で知り合ってちょっと仲がいいだけの関係だよ。でも、関係ないことはない。
「そう、関係ないこと、ないじゃないか。今もこうして"関係"してるじゃないか……」
 俺、なんか屁理屈言ってるな。見下ろす視線が体に刺さる。

 馬鹿だなあ、俺。自分で思ってた以上にちっとも頭よくなんかない。うまい言葉が見つからない。
 早く言わなければ。ローランが満足するだけの理由を。――でもそう考えれば考えるほど頭が真っ白になっていく!

「……おい」
 黙りこくった俺にローランが不機嫌に声をかける。もう情けなさすぎて、笑えてきたよ。
「ははは、はは」
 俺の乾いた笑いが路地裏に響く。自分を嘲る笑いだ。音はすぐに消え失せる。
 地面に座り込んだまま、俺は顔を片手で覆う。頭上で小さく、呆れたように息を吐く音が聞こえた。
 ごたごた考えすぎて頭がパンクしそうだ。もう考えるのやめとこう、そうしよう。

 俺は顔を上げローランを見た。長い前髪が目にかかっている。まだいろんなものがにじみ出ているけれど、一番酷かったときに比べたら、なんのその。
「……ごめん、ローラン。俺はさ、ただ、あんたのそういうところ、見たくなかっただけで」
 言ったはいいが直後に気恥ずかしさが迫ってきてまた顔を伏せる。
「理由を求められても、俺、ほんとに喧嘩嫌いってだけで。あ、でも店で暴れる奴らは問答無用で追い出すし喧嘩やめさせるけど……」
 ローランは無言だ。でも少しずつ向けられていた殺気や怒気が薄れてきているのが分かる。
「知った顔だし、なんかこう、体が勝手に動いてさ。気分悪くさせて、ごめん。ほんとに」
 頭をぐっと下げて謝罪する。

 はあ、とため息が聞こえた。
 すぐ近くまでローランが体を動かす気配を感じて思わず硬直する。しかし彼は俺の側に落ちていたオレンジを拾い上げた。
「顔を上げろ。もういい」
 おそるおそる顔を上げる。目の前にずいと拾ったオレンジを突き出され、それを受け取る。
「俺も悪かった」
 ローランは俺の目をのぞき込んでそう言った。まっすぐに俺を見る鳶色の瞳は、けれどすぐに反らされた。……照れてらっしゃる。
 髪より赤みは薄いけれど、それでも赤くなった耳に呆然としていると、見られていることに気づいたのか。拗ねたような目で俺を一瞥すると、あたりに転がった物を拾い始めた。


 二度転がった食品の傷み具合を心配しつつ、俺は膨れた紙袋を手に立ち上がる。小さく咳をし、路地から出ようと歩き始めた。

 後ろから名前を呼ばれたため足を止め振り返る。
「頭は大丈夫か」
 すいと伸ばされた腕が頭に伸ばされる。軽く髪の上から触られた。
「まあ、今は」
 髪の中に手を入れられ頭皮を触られるってのは……くすぐったいですね! いつもの表情になったローランが俺の頭を熱心に探ってるというのは、なかなか変な感じがする。
「少しこぶになってるな。冷やしておけよ」
「ああ、もちろん」
 混ぜっ返してめためたになった髪はなでつけられる。基本、ローランていい奴っぽいのにな……ギャップが。手を引っ込めて、俺が行こうとした道を先に歩いていく。
「悪かった」
 すれ違いざまに、と言うわけでもなかったが、明らかに俺に向けての言葉は小さな呟きだった。
 その一言で頭への攻撃と首締めをチャラにしてしまいそうな気分だった。いい奴なんだなあ。


「……歩いてる最中悪いけど、道、分かる?」
 前を行く背中にふと思いついて質問を投げかけてみると、見事に固まった。その見事さに思わず笑ってしまう。
「はは、悪い悪い。とりあえずまっすぐな」
 ぎこちなく頷くローランに、また笑いがこみ上げる。今回はかみ殺したが。

 ようやく大通りに出た。ざわめきが妙に懐かしい。裏道が静かすぎたんだ。
 何気なしに並んで歩いている。俺は喧騒に紛れればいいと思いながら、けれど耳に届いて欲しいと思ってぽつりと言葉をこぼした。
「……喧嘩好き?」
「ああ」
 うっわ聞かれてたよ! しかも即答だよ! 否定をどっかで期待していたのに……。
 もうこのノリで聞いてしまおう。たぶんもう大丈夫。

「戦争行ってた?」
「ああ」
「腕と目もそのときに?」
「そうだ」
「ふうん……。そか」
「気になるのか」
 ちらとローランが俺に視線を向けた。俺は緩く頭を横に振る。
「俺にも聞かれたくないことがあるから、いい」
「そうか」
 口元を僅かにつり上げるだけの笑みを、彼はしていたと思う。

 頭のこぶと首の鈍い疼痛が印象的な、ある5月の終わりの話。




up 2008/11/13

いつかはぎゃんぎゃん口喧嘩させたい。
なんかローランが…丸く…もっと怖くてもいいと思ってるんですがね。