Vendemiaire

 世間は随分と秋だ。木々は枯れ始めて、道にカリカリになった葉が落ちているのをよく見かける。もう薄着じゃ肌寒いぐらいだ。
 ……あれからというもの、ローランはめっきり顔を出さなくなった。時折、市場であの赤い髪をちらりと見かけるけれど、あんまり遠くてすぐに人混みに紛れて見えなくなるし、ローランという確証もないから追おうにも追えない。
 未だにあの時貰った瓶は、開けられることもなくカウンターの片隅で薄く埃を被っている。せめて顔を出してくれればあれこれ言いたいことが言えてすっきりするだろうに。

 日が落ちるとめっきり寒くなる。若干冷たくなった指を擦りながら、まばらに埋まるテーブル席を見やり俺はひっそりとため息をつく。
 そろそろ扉修理しようかなあ。すきま風がいい加減きつくなってきたし。
 扉に付けられた安物のベルが鳴る。ぱっと視線が扉に向くが、入ってきたのは帽子を目深に被った背の低い男だった。常連さんだ。

 一直線にカウンターへ来ると帽子を脱ぐ。
「いらっしゃい。いつもので?」
 下降修正したがる意識を無理矢理上に引き上げ、グラスに手を伸ばす。
「よろしく」
 どっかと椅子に座る。俺がグラスに氷を適当にいれ、後ろにあるボトルを取り栓を外し、その中身を注ぐ――という一連の動作を常連さん(ブノワという。小柄でなかなかに気のいいおっさんだ)は凝視していた。な、何。何なの?

 グラスをカウンターに出すと、それを手元に引き寄せブノワさんは俺を見上げた。
「なんだい君。元気がないね」
 ……きっと俺は不思議そうに見返したに違いない。ある程度的を得ている言葉に、思わず俺は苦笑した。元気がないんじゃなくて、悩んでるだけなんだけど。いや……、うん、確かに前のような元気というか明るさは無くなってしまっているかもしれない。
「そうです?」
「随分前からじゃないか。どーしたどーした、悩み事かい?」
 ずいと身体を乗り出してくる。
「はは、まあ悩み事と言えばそうですけどねえー」
 ぎゅっとボトルの栓を詰め直す。悩みの種がふいに脳裏をよぎった。くそ、さっさと店に来いってんだ!
 それを戻すとブノワさんは口を中途半端に開けたまま俺を見ている。あれ、なんか変な事でもしたっけ。

「仕方ない事ですから、大丈夫」
「恋煩いだな!?」
 がたんと勢いよく立ち上がられる。あんまりにも声が大きかったもので、他の客がこちらを見る。
「いやいやいやいや……」
「とうとうお前さんにも春が来たか! そりゃあよかった!」
 豪快に笑いながら座り直す。

 とてつもなく微妙な気分ですこれ。喜んでいいのか悪いのか……いやほんと、ほんっとに困る。
 ――なにもかもあいつの所為だってのは分かるけど!!
 早く来いよ。いつまで待たせるんだ、お前。

「どこの娘さんだい? お、もしかしていつも何かしら貰ってるお嬢か?」
「だーから違いますってー」
 こうなったらとことん食いついてきそうで、恐ろしい。どうしたもんか。
「じゃあ誰だい? 隣街のロジーヌ嬢か!?」
「いやいや、確かにロジーヌ嬢は美人さんだって聞きますけどねぇ、見たこともないのに惚れるかって」
 さあどうやってこの色恋話好きのおいちゃんを黙らせよう。今、あんまりこういう事話したくないんだけどなあ。
 なんであんなやつ、とか、そのことについての訳の分からない罪悪感とかで頭がいっぱいいっぱいになってくる。
 ああ、すきま風が冷たい。やっぱり修理しよう。


 結局うんざりするまで話に付き合わされて(ついでに一杯付き合った)、ようやくブノワのおっちゃんは帰っていった。ああ、騒がしかった。
 使ったグラスを片付けると例の瓶が目に入る。この際ひと思いに食ってやろうか。……いやでも一気食いはさすがに胸焼けがしそう。
 濡れた手を拭いて、瓶の上蓋を覆う布にうっすら積もった埃をぬぐう。
 ――食べずに棄てるか? いや、それはあんまりに勿体なさ過ぎる。
 脳裏に何度目か分からない赤い影が差して、咄嗟に頭を振った。
「……くっそ」
 本当に俺はどうしたいんだ。


 客のいない朝早くから、俺は工具片手に店の前で作業をしていた。店の扉の蝶番を変え、再び壁に取り付ける。なんかこうすると簡単そうに思えるけど、案外結構重労働だった。……間違えてトンカチで指叩くし。今日は店を閉めておきたい最悪の気分だ。どーしよ。
 ちゃんと開閉できるようになった扉を俺は満足げに見、決断する。よし、今日はお休みだ。

 鍵をかけ、閉店のプレートをノブに引っかけ店を出た。
 もういい加減食べようと、例の瓶も鞄に入っている。思えば、こいつに悪気はないんだしね。




up 2009/02/13