Nivose

 はっと我に返ったのは金髪の男がカウンター席に座った音だった。ぎしりと、いい加減古い椅子が軋む。
「何か、いい酒を……」
 じゃらじゃらと小銭をカウンターの上に広げる。その金額を見、今までずっと詰めていた息を静かに、そっとはき出した。
 営業用の笑顔を無理矢理貼り付け、金髪の男に話しかける。男は随分疲れているようだった。きっと俺もだろうが……。
「とっておきが、あるよ。今まで客に出したことは無かったんですけど」
「……いいのか?」
「もちろん」

 手伝い君に床の掃除を指示し、俺は葡萄酒の瓶を取り上げる。グラスになみなみ注ぎ、それを男に出した。
「Loraineというんです」
 葡萄酒の注がれたグラスをじいと見た後、それを持つと一口飲み、ゆっくりと目を閉じる。
「いい酒だな……」
 それは独り言のようだったが、俺は小さく笑って返した。
「そうでしょう」


「なあ、あんた、あいつと知り合いだったのか?」
 手伝い君が半泣きで床を掃除している様をぼうと見ていると、急に質問を投げかけられた。
「そう、ですね。常連で」
 へえ……とまだ興味がありそうに呟かれる。こっちはお前の経緯も気になるけどな。
「なんでそんなことを聞くのか聞いていいですかね」
 ふ、と男はどこか虚ろげな顔で(しかも鼻で)笑うと、ちらり視線を背後へ向けた。その視線の先にはあかいあかい水たまり。
「あの男を終始真っ青な顔で見てたから、かな」



 今までにないほど俺を捕らえていただろう鎖が外れ、随分と心も身体も楽になってしまった気がする。
 けれど、寂しかった。
 大きすぎる開放感は、同時に俺に大きな寂寥をも与えてくる。

 ――その時の俺が平然と(あくまで見た目は、だ)過ごせたのは店の中で客がいたからだと思う。
 そうでなければ、どうなっていたか想像したくもない。

 金髪の男が帰り際、何か言いたげに俺を見ていた。俺はまた無理して笑って、小さくいい奴だったんですよあいつ、と言った。それから、と付け加える。
「よかったら、また来てくださいよ。こんな地味な所ですけど、これ、気に入ったでしょ? 多分ここら辺はウチしか、置いてないですから。あ、それと俺っていいます。以後お見知りおきを」
 これ、とLoraineの瓶を少し掲げて見せる。気が向いたらな、と言われ、待ってますよと笑って見せた。





 窓から差し込む朝日に目を細めつつ、俺は再びモップを手に床を擦っていた。手伝い君は半泣きだったためか、あんまり綺麗にしてくれなかった。慣れようよ。
 時間が経ちすぎてしまったのか、木に染みこんだ血はなかなか落ちなかった。板を張り替えるわけにもいかない。さすがにそこまでの出費は痛いし、まあそんなにみんな気にしないからいいかな……。

 曲げっぱなしで痛い腰を伸ばす。
 実は置き場所に困って、ローランはまだこの店内にいた。なんとか端に引っ張ってって、布をかけただけなんだけど。葬式とかどうしよう。やっぱり俺がやるのかな。うーん、共同墓地でいいよな。
 床を見るとやっぱりまだ赤くて、なんとか薄めようとごしごしモップで擦る。ああ、落ちない。

 ふと視界がぼやけた。目を擦ると熱かった。なんだ……泣いてるのか俺。
 床に涙が落ちる。それが嫌で顔を上げたが、止まらなかった。涙が床を叩く音が、嫌に大きく聞こえる。


 くそっ。最後までローランに振り回されるなんてな! そう思っていながらもふらり足はローランに向く。
 ぐずぐずと鼻まで垂らしながら側にしゃがみ込む。最後まで自分勝手なヤツだった。

 考え始めると止まらなくなった。ぼろぼろ涙は後から後から出てくるし、止めようがなかった。
 だから俺はしばらく、何も返さないローランの前で思い切り泣いた。声が漏れていようと、構わず泣いた。


 どんだけ泣いたかは分からないけれど、一頻り泣いて涙も涸れた。赤くなってるだろう目を服の袖で拭い、深く息を吐く。
「なあ」
 答えが返ってこないのは分かっていた。
「俺お前のこと好きだったんだぜ」
 時期を逃した告白。いや、しかし今だからこそ言えるんだろう。もしこれが本人に聞かれているとしたら、俺は絶対に恥死していたに違いないから。

 ローランの死によって、俺がずっと抱えていた感情は無理矢理に終焉を迎えさせられた。
 でも、ああ、今にして思うと、ずっと姿が見えなくて焦れていたのはローランの姿に恋い焦がれていたからなんだろう。


 俺はベストの内側から、丁寧に四つ折りされた紙を取り出す。そこには知り合いの情報通に調べて貰った事が淡々と書き連ねてあった。
 ローランは妻がいたらしい(そんなこと微塵も感じさせなかった。指輪もなかった)。しかし3ヶ月前――店に来なくなった時期にその妻がひとり息子を残し死亡。自暴自棄になったローランはアルコール、薬物に手を出した。
 今の時世、よくある話ではあったが、最後には銀髪の男の手によって幕を下ろされた。やはり戦争にいっていたと言うから、その時に恨みを買っていたのかもしれない。

 終わった後にこんな情報が入ってもどうすることも出来ない。仕事の遅い情報屋に悪態をつきつつ、俺はせめてちゃんと弔ってやろうと思った。まだ寒い季節だが、やがて暖かくなるだろうから。

「お前みたいに、中途半端に人生終わらせたりなんかしないからな。ローラン」
 誓いのように呟き、立ち上がる。死体に背を向けると、背後から小さく「」と名前を呼ばれた、気がした。


どうでもいい後記


up 2009/03/24