どこまでも遙か、彼方へ


この手に灯るのは

 麓の村を見下ろせる場所にはひとり立っていた。黒く長い外套は、黒く沈む周りの木々に紛れそうで紛れない。

 今日は黒鷹が玄冬を街へと連れて行く日だと前々から聞かされていた。ずっと山奥に引きこもってばかりではなく、世間も知っておいた方がいいだろうという判断のためだ。
(確か暇なら来いって言われてたっけ)
 随分と成長した玄冬は、幼い年の割になかなか鋭い返答をする。前回会ったときのふたりのやりとりを思い出し、は苦笑した。けれど、自分の腰あたりまでしかない身長からぐいと顔を上げ、真っ直ぐに見上げてきたときの瞳はまだ子供のものだった。
「……行ってやりますかね」
 三歩下がり、助走をつけ前へ飛ぶ。一瞬の後、彼は空中にいた。翼を広げ風を掴む、灰を纏う大型の鳥へと姿を変えて。


 人気のない裏路地へ着地すると、飛び立ったときと同じように一瞬で人の姿へと戻る。どの辺りにいるのかは見当が付いていた。上空を旋回していたときに見つけることが出来たし、に気づいた黒鷹が手を振り場所を教えたからだ。
 裏路地から抜けると人混みに紛れ進む。最近は目立った抗争も無く安定していると言えた。けれどあちこちに火種が隠れていることには変わりはなく、賑わいを見せる街の市場もどこか緊張感があった。

 主な通りから外れてしまうと人影はぐっと減る。この辺りだったはず、とは辺りを見回し、街角の小さな広場へと視線を向ける。その入り口に、大きな影と小さな影がひとつずつ。
「いたいた」
 若干歩調を早めそこへ向かう。先にに気づいたのは玄冬だった。を認めると、彼は黒鷹の外套を引っ張り知らせる。黒鷹は一度玄冬へ視線を落とし、それからへと向け、やっと来たとでも言うように笑顔を浮かべた。

 すぐ近くまで歩いてくると、はまずしゃがみ込んで玄冬と視線を合わせる。
「こんにちは、玄冬。街はどう?」
。……うん、人が多くて、知らないものがたくさんあるのが不思議だ」
「そっか」
 微笑んで玄冬の頭を撫でる。賢い彼のことだから、あっという間に多くのを事吸収してしまうに違いない。これからの成長が楽しみではあったが、その反面、複雑な気持ちでもあった。

 は立ち上がると黒鷹を見る。特にこれといった問題は起きていないようだ。
「用事は終わった?」
「大方ね」
「ほーん」
「さて、じゃあも来たことだし、私は少々失礼するかな」
 黒鷹は手を後ろで組んだまま歩き出すが、二歩目の足が地面に着く前にが黒鷹の肩を掴む。
「ちょい待った。いきなりですか黒鷹サン?」
 逃がすまいと、は肩を掴む手に力を入れるが、あはははと笑いながら黒鷹はそれでも前へ進もうとする。
「私にもやることあってね! 丁度いいじゃないか、バトンタッチだよ!」
 の眼前を不可視な何かが通り過ぎていった、と思った次の瞬間、手が空を掻いていた。咄嗟に上を見上げれば、上昇気流など無いはずなのに空高く舞い上がる鷹の姿。
「うわせっこい!」
 叫ぶ間にも姿は小さくなっていく。大きく旋回したかと思うと、すいと方向転換し消えていく。

「ああいうのは常套手段だからな」
 上を見上げていると、下から声がしてそちらを見る。同じように上を見上げている玄冬が眩しそうに目を細めている。ふとと視線がぶつかると、恥ずかしそうに顔を背けた。
「いっつも逃げる?」
「……、……面倒なことになると」
 そう呟いた玄冬の表情は見慣れた仏頂面ではあったが、はその奥に押し込めた感情がある事を知った。玄冬に気づかれないようにそっとため息をつく。そして黒鷹はやっぱり馬鹿鷹――もう馬鹿鳥でもいい――だったと再確認をした。

 はもう一度、玄冬の目線に合わせてかがみ込む。目線が近距離で合うと、やはり恥ずかしそうに反らす。そう言うところはまだ子供らしいのに、何故感情を素直に出さないのだろうか?
「そう言えば、家にある本、この前読み尽くしたって言ってたよね」
 こくり、と玄冬は頷く。
「じゃあ新しいの買いに行こう」
 ね、と言葉と共に手を差し出す。玄冬はその手を見、今度はじっとを見た。
「……本当にいいの?」
「もちろん」
 たっぷりと時間がかかったが、小さな手がの掌に載った。


 本を扱う店の中で、はきらきらと目を輝かせている玄冬を微笑ましく見守っていた。高い場所にある本は取り出して手渡してやったりするが、基本的に玄冬が大きくない店の中を動き回っている。
 もそれとなく店内を回り幾つか気になるものは棚から取り出してみたが、頁を幾つか捲るだけで棚に戻してしまう。本が読みたいなら塔へ行けば良かった。今まで散々読んできたが、未読の山がまだいくつもある。
 狭い通路から玄冬の様子を窺うが、まだ本が決まる様子はない。柱に寄りかかりながらは、あれは、自分も話の振り方が悪かったかもしれない、と先ほどの行動を反省する。
 けれどあそこで逃げる黒鷹も悪い。今までの経験上、黒鷹は"面倒なことになると逃げる"という行動をとるを玄冬は知っている。が現れた際に保護者役を任せて消えてしまうなど、とんでもない事だ。
(あとで説教かな)


 呼ばれ、そちらへ顔を向けると本を抱えた玄冬が居た。店に入る前に、なんでもいいよと言っておいたので何を選ぶのか楽しみだったが、抱えている二冊ともが分厚い。ぱっと見、少なくとも童話のような子供向けではないような気がする。
「それでいい?」
 あおれでも確認を取ると、玄冬は大きく頷いた。本を受け取り代金を店員に払う。紙袋に入れられた本は随分と重かったのでが持ち、ふたりは店を出た。
 出てすぐに玄冬の足が止まった。つられても足を止め、どうしたのかと後ろを振り返る。
「……あり、がとう、
 玄冬は手を握り締め俯く。は玄冬の頭にを優しく撫で、優しく微笑んだ。
「どういたしまして。……俺に読める本だったら、寝る前にでも読んであげよう」
 そっと玄冬の手を取る。はにかんだ玄冬に、は髪をぐしゃぐしゃにするほど抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、意地で押さえこんだ。
「帰ろっか」
 歩調を玄冬に合わせ歩いていく。冷たくなり始めた風がふたりの髪を揺らしていった。


 家へ着いて暫くしても黒鷹が帰ってくる様子はなかった。玄冬へ温かい飲み物を作ってやりながら、このまま夕飯も作ってしまおうとは袖を捲る。
 カップへ湯気の立つミルクティーを注ぎ、それを持って居間のテーブルへと向かう。玄冬は買ったばかりの本を熱心に読んでいる。彼の近くにそっとカップを置くが、気づかれ顔を上げた。
「それ、面白い?」
「面白いというか、ためになる」
 また難しいの読んでるな、とは笑う。玄冬は満たされたカップへ視線を落とし、を見た。
「……ありがとう」
「どういたしまして。夕飯今作ってるから」
 玄冬は頷いて返すと、再び本へ集中する。この調子だと二冊ともすぐに読みきってしまいそうだ。

 夕食を済ませ後片付けが終わった頃にはとっぷりと日が暮れていた。それでも黒鷹は戻ってこなかった。
 昼間よく歩いた玄冬は夕食後程なくして船をこぎ始めたため、身支度を調え既にベッドに入っていた。部屋はベッドサイドの明かりだけで薄ぼんやりと照らされている。
 ベッド近くの椅子に腰掛け本を捲るは、衣擦れの音に顔を向ける。玄冬が、眠たい目を擦りながら身体を起こしていた。
「どうかした?」
 が尋ねる。玄冬は眠気を遠ざけるように頭を振り、を見た。
「今日、は、ありがとう」
 その言葉には目を張った。けれどすぐに困ったように眉尻を下げ苦笑する。全くこの子は。
「礼なんていらないって」
 玄冬は、でも、というような顔をする。は椅子から立ち、ベッドの縁に腰掛け玄冬の頭に優しく手を載せた。
「あのね、もっと甘えてもいいんだよ。あいつにゃちょーっとやりづらいかもしれないけど、俺には遠慮無く、あれがしたいとかあれが欲しいとか。我が侭が通るなんてさ、今の内だし」
 特殊すぎる彼の立場と回りの要因が、この子供から子供らしさを失わせている。にはそれが堪らなかった。――それはもう一人の子供にも言える事かもしれないけれど。
 なんで他の子供達のように、自分に素直に生きられないんだろう。
「素直に言ってもいいんだよ」
 誰もそれを咎めたりはしないのに。

(俺はただ、それでも"玄冬"に呑まれずに生きて欲しい)


 玄冬の頭に載せた手で、ぽんぽんと軽く優しく撫でる。
「ね」
 ふ、と玄冬は目を伏せた。そして小さく頷く。

「さ、もう眠いだろ。また今度色々話そう」
 ベッドへ玄冬を横にさせ、胸まで布団を引き上げる。と、布を掴むの手に玄冬の手が触れる。の動きが、ふと止まった。
「明日も、いる?」
 いつもよりもゆっくりとした口調。余程眠たいのだろう。
 それにしても、触れる手があたたかい。昼間とは違い、の手をしっかりと握ってくる。
「――玄冬が居て欲しいって言うなら、ね」
「じゃあ、いて。いろい、ろ、話……した、」
 全て言い終わる前に玄冬の瞼が落ちた。握る手からも力が抜け、はそっと手を抜く。立ち上がり、もう一度布団を整えると穏やかな顔で玄冬を見る。
「おやすみ、玄冬」
 外から、ばさりと大きな羽ばたきが聞こえた。


 黒鷹がなるべく音を立てないように玄関のドアを開けるがその努力も空しく、が腕を組みながら笑顔で真正面の壁に寄りかかっていた。
「や、やあ、?」
「遅かったね黒鷹?」
 声の調子に変化は無いが、妙に笑顔なのがやけに怖い。黒鷹は今すぐにもドアを閉めてしまいたい衝動に駆られたが、そんなことをすれば一層彼を煽ることになってしまう。奥へ歩いていくの後ろに、大人しく着いて行った。

 ふたりが椅子に腰掛ける。黒鷹が帽子を取りテーブルに置く。
「悪かったよ、
 気まずそうにしながら黒鷹がテーブルの上で手を組む。はあ、とは大きく呆れのため息をついた。
「なんだ、分かってたのか」
「……もちろん。けれど仕方なかったんだよ。白梟の方に動きがあったから、気になっていたしねぇ」
 どうやら仕事らしいことはしていたらしい。
「だからって」
「君が来なかったら行くつもりは無かったんだよ?」
「当たり前だろ」
「まあひとりにしても自力で帰りそうな気もしないこともなかったけど……」
「それは絶対にするな。――じゃなくて!」
 玄冬が寝ていると言うことをは忘れていない。だん、テーブルを叩いた音も酷く大人しいものだった。
「……せめて何か言ってから行けば良かったんだよ」
 そうすれば玄冬は勘違いをすることはなかった。

 僅かには黒鷹を睨む。黒鷹はやれやれと首を振った。
「過保護だね」
「悪かったね」

 はずるずるとテーブルに突っ伏した。言いたいことを言ってすっきりしたはずなのに、全然すっきりなどしていなかった。
「……はぁ」
 左腕を枕代わりにし、右手を伸ばす。
 まだ玄冬が触った部分が温かいように思えた。嬉しいけれど、哀しい。
 いずれ彼も救世主と出会うことになるのだと思うと、切なかった。――愛おしい子に、死を望む訳がない。

 黒鷹は何も言わない。ただ、テーブルに散った灰色の髪を一房掬っては手から滑り落としていた。

この手の中にあるものは、幾ばくかの切なさと 温もり。


2009-09-28

小さな玄冬と灰の鳥について。
どちらも大切で切り落とせない優柔不断な灰色の子。

神澤 蒼