玄冬が部屋から駆けだしていく。その背中を見送り、俺はひとつ息を吐いた。
「意外と、猶予があるとはおどろきだ」
足元を見れば床が透けて見える。どうやら末端から徐々に消えていくらしい。――それは隣の黒鷹も同じようで。
「全くだね。いっそぱーっとやってしまった方がよかったというのに」
やれやれ、と言うように頭を振り腕を組む。
唯一の小さな窓から風が吹き込んだ。それは厳冬の冷たく切れるようなものではなく、春の温もりを潜めていた。
俺は目を細め風を受ける。春が来る。……その季節の中に自分たちはいないけれど。
「これからどうなるのかな」
「さあねえ。もしかしたら主の元へ戻るのかもしれないが、私たちはこの箱庭の楔となっている故にそれは無いかもしれない」
「これが最後かもしれない、って事ね」
腰までが光となって消えていた。こんな状態でも不思議と立っていられる。
心残りが故に消える事を拒むかもしれない、と思っていた。けれど予想以上に心は穏やかだった。
「あー、玄冬ちゃんと飛べてるかなあ」
薄れていくシステムの光をぼんやり眺めつつ呟く。それが唯一の気がかりというか。けれど何事も器用にこなす子だから心配は無用かもしれない。
「玄冬なら大丈夫だろう。きっとすぐにコツを掴む」
「だなあ」
この箱庭の春は美しい。俺は雪に覆われ白く沈む風景も好きだけど、凍える冬を越えた季節ほど眩しく輝く時期はない。
そういえば春になったらピクニックに行こうとか言ってたっけ。うーん、行きたかった。玄冬の果実酒は旨いからなあ。
「……もう玄冬も花白も、無理な役割を背負わなくてもいいんだよな」
望まない立場というのは苦しい。それが否応なくなら尚更に。
「ああ」
黒鷹が短く返す。視線を向けると、外を見ていた。灰色の雲間からのぞく青空。あの日差しの眩しさ――
ちらっとこっちを見たかと思うとにやっと笑う。
「何だね。今になって名残惜しくなったかな?」
「馬鹿言うな」
楽しかった、と口だけ動かす。
沢山の思い出。記憶。歴史。"灰色"の立場でいろんなものを見てきた。
やっぱり人間は争いを止める事は出来なかったし(そういうものだと割り切った)、それで彼らは天秤を揺らめかせて苦しんだ。
彼らのささやかな喜びも哀しみも迷いも見てきた。
「雪が止んだよ、」
窓辺へ近づく。肩にそっと黒鷹の手が乗るのを感じる。
小さな四角い窓から見下ろした世界は、眩しかった。きらきらと積もった雪が光を弾いて輝いていた。――不意に鼻の辺りがつんとくる。
「何を泣いてるんだね君は」
と、苦笑混じりの声。
「きれいだなと思って」
「……そうだな」
ぽんぽんと子供をあやすように頭を優しく叩かれ、引き寄せられる。瞬きをすると、涙がこぼれた。
もし、もしも。
もしも俺がこの記憶を持ったまま再びどこかに居られるなら。
残酷な、けれど美しい箱庭があることを書き残したい。
かなしい定めのふたりがいたことも、守護の鳥がいたことも、記憶している事を全部。
そんな箱庭が、世界があったのだと。
「お前らなら大丈夫」
行き先は解らずとも、どこまでも行けるから。
だからきっと、必ず、しあわせになりなさい。
「くろたか」
「なんだい」
「……ありがと」
幾らか間を置いて、頬に温かいものが触れていった。
そして目を閉じる。
ああ、一人でないとはなんてあたたかいんだろうか。これで終わりだとしても、こんな終わり方なら幸せだと、思う。
2009-12-20
花に捧ぐ
神澤 蒼