唐突でした。
 マスターが椅子から立ち上がったと思ったら、膝から力が抜けてその場に倒れ込んだんです。慌てて駆け寄って、大丈夫ですか、怪我はありませんか、という俺の問いかけに、マスターは生返事でした。
 立ち上がろうとしても力が入らないらしく、床に膝を突いたまま額を押さえて蹲っていました。せめてなんとかベッドに運ぼうとしましたが、それよりも先にマスターが俺の服の胸元を掴むのが先でした。
 マスターは酷く掠れた声で(ああ、朝は普通に喋っていたのに!)俺の名前を呟き、冷や汗の滲む顔をくしゃりと歪めました。
 これは異常状態だと思い、無線通信でミクに119番へ電話するよう伝え、俺は何度もマスターの名前を呼びました。
 荒い息を吐きながら、マスターは俺にしがみついてきます。突然すぎて状況を把握する事が遅れてしまい、はっとなってどこが痛いのですかと問いかけました。
 苦しそうに胸を押さえながら、ここが、と一言だけマスターは言いました。走ってきたミクから受話器を受け取り、今の状況を伝えました。
 俺はきちんと伝える事が出来ただろうかと多大な不安に駆られながら、なおも通話を続ける受話器片手にマスターを抱きしめます。緩く持ち上がった腕が俺の背中に回ろうとしてそれを断念し、腕を軽く掴むに留まるのが分かりました。
 いつも聞こえているマスターの音が何時もと違う事に気が付き、それを電話越しのオペレーターに伝え、何もする事が出来ない自分に苛立ちを覚えるのです。
 俺はただ微かに震えて浅く荒い息を吐き続けるマスターを抱きしめるしかできなくて、視界に入る自分の手が震えている事に気付き、怖くなる。
 マスター、マスター。
 何度も何度も繰り返し呼び続ける。俺の声は震えていた。何故? あなたがこんなにも辛そうにしていて、それが最悪なパターンを想定させてしまうから!


 ああ、マスター。
 いつだったか、貴方は言いましたね。暫く死ぬ予定は無いって。
 ねえマスター。
 どうか、何か、言ってください。きつく抱きすぎだと、怒鳴ってくれてもいいですから。





















 俺たちがボーカロイドだからか、医者は死因を伝えてはくれなかった。
 段々と体温を失っていくマスターのベッドの傍で、俺たちは項垂れていた。ミクは泣いていた。
 しゃっくりを上げながら震える肩を抱き寄せるしか思いつかなくて、其れしかできなくて、俺は瞼を無理矢理引き下ろす。

 もう、貴方の音が聞こえない。あの僅かな呼吸音さえも聞こえない。
 貴方はここにいるのに、何故瞼を閉じただけで存在を感じる事が出来ないのでしょうか?

 辛そうだった様子が嘘のような、眠るように安らかな顔でマスターは永遠に覚めない眠りに入ったのです。



 次の日になって漸く、マスターのご親族がやってきました。真っ先にマスターの顔を見て泣き崩れ、ひとしきり泣いた後に俺たちを見ました。なるほど、ご親族だけあってマスターの面影をうっすら見る事が出来ました。
 マスターのお母さんと名乗る人が、俺たちに向かって予想よりずっと優しい声で言いました。あなたたちの話は聞いているわ。この子をありがとう、と。
 その言葉に、泣き止んでいたミクは再び涙を流しました。俺はただ、一番大切な時に役立たず立った事を思い出し、苦い顔で頭を下げるしかありませんでした。


 マスターのお母さんから服を借り、俺とミクは通夜と葬式にも出席させてもらいましいた。何故、と聞くと当たり前のようにお母さんは、あなたたちはあの子の家族なんだから当たり前でしょう、と疲れが垣間見える笑顔を灯しながら言いました。
 家族。そうあればいいなと思っていましたが、俺たちは家族になれたんでしょうか? なれていたんでしょうか? 
 葬式の時に、お母さんの取り計らいかマスターの作った曲が流れました。それはオフボーカルで、お母さんは俺の背を優しく押して、さあ歌って、と俺たちを参列者方の前に立たせてくれました。
 涙で赤くなった目元が痛々しいのです。でもお母さんは、優しく優しく微笑むのです。その表情に胸が痛くなりました。
 ああ、これはマスターが一番気に入っていた曲ですね。
 マスターらしい、ピアノを主とした優しい歌。俺は歌うために息を吸います。隣に立つミクは、コーラスのために何拍か遅れて胸一杯に吸いました。

 常日頃の練習のせいか、精神面ではがたがたなのに何時も通りの音を出す事が出来た気がします。それは嬉しくありましたが、逆にマスターと過ごした日々を記憶を思い出させました。
 リズムが悪いと怒鳴られた事もありました。マスターがミクの曲ばかり作って、俺が拗ねた事もありました。
 思うように音が出なくて泣きたくなる事もありました。時たま、褒められて頭をぐしゃぐしゃに撫でられる事もありました。
 いろんなものがぐるぐると繰り返され、けれど最後はマスターの笑顔へ回帰するのです。
 
 曲が終わってしまいます。最後のサビです。これほどまでに強く、曲が終わって欲しくないと思った事はありませんでした。けれど曲は繰り返すことなく終わりに向かいます。
 俺はありったけの感情を込めて外の世界へ向け最後の音を、放ちました。
 ピアノの和音でこの曲は終わります。耳に心地よい音は、呆気なく消えて無くなってしまいました。

 隣のミクがハンカチに顔を埋めるようにして泣いていました。気が付くと俺も、涙を流していました。
 マスター。マスター。何よりも誰よりも大切で俺の全てだった人。
「俺は、」
 マスターが、と言いかけて慌てて言い直します。
「俺は、さんが、大好き、でした」
 ずっと口にする事のないと思っていた名前を、俺はついに口に出してしまいました。それがなお一層もう二度と会う事は出来ないのだと強く主張しているようで、俺の声を震わせるのです。
「沢山の曲、を、歌わせてくれまし、た。何よりも、さんと過ごした日々は、かけがえのない……ものでした」
 "大好きでした"、"かけがえのない物でした"。全て過去形ということに俺は――自分で言っておきながら――涙がこぼれるのを止められない。
「ありがとうござい ました」

「だいすきでした」

 ずっと言えなかった言葉を今、こんな所で吐き出している俺をどうか、許して下さい。
 ああ、でも今でも大好きなんです。誰よりも愛しているんです。
 でも伝える事が出来ないのなら、この思いなんか全て意味のない物なんです。

 もう会えないんですね。マスターの笑顔を見る事は出来ないんですね。
 俺が大好きだった仕草も声も、何もかも記憶の中に残るだけになってしまったんですね。
 寂しいです。辛いです。
 こんな思いをするのなら、俺はもう、活動したくなんかないです。

 でも、それを貴方は望まないでしょう?
 そんな事をしたら、きっと酷く叱られる。

 でも出来るならば、最期に俺は貴方に名前を呼んで欲しかった。