立ち上がろうとした膝から力が抜けるのを人ごとのように感じていた。いつまで経っても力が入らなくて、床に這いつくばる。
 飛んできたカイトが隣で俺の名前を呼んでいる。動悸が酷すぎて反応を返すどころじゃなかった。
 がんがんと急に激しく鳴り響く頭痛。呼吸も満足に出来なくなって、は、と短い呼吸を何度も繰り返す。冷や汗なんて随分久しぶりだった。
 抱え上げるのを止めたカイトが俺を抱きかかえ、泣きそうな顔をして、名前を何度も何度も。マスター、マスターと。なんだよ、ちゃんと聞こえてるよ。
 それでも呼吸は段々確実に苦しくなっていくし、頭痛で頭が割れそうだった。しっかりしてくださいと頬に添えられた手が温かい。
 ……密かに忍び寄る一つの足音だけが怖かった。

 約束をしたんだ。
 暫く死ぬ予定なんかないって。

 まだあいつらに歌わせてない曲がたくさんある。もっと形にしたい曲がいくつもある。
 もっと、歌わせてやりたい。もっと、もっと。


 カイトの顔が霞む。滲む?
 意識が遠くなる。だめだ、だめだ。まだ。
 震える声が遠くなる。感じる感覚全てが遠ざかっていく。ひたり、とすぐそばで足音が聞こえる。
 まだ、俺は、































 何もなかった。



 ただ白い。白い世界が広がる。
 死後の世界なんて信じていなかったけど、こんな拍子抜けだとは。
 いや世界という概念すらないのかも。
 ただ、白い。見渡す限り、上も下も右も左もなにもかも白い。

 その中でただひとり立ち尽くす俺はなんだろう。
 そもそも俺とは?
 神澤、男、人間、ああ、"俺"とは一体何だっけ。
 俺を俺とする情報が輪郭が曖昧にぼやけていく。
 これが"死"?
 何もない。これが死ぬという事なんだろうか。

 俺が溶けていくような感覚。

 意識が白い世界に混じっていく。
 手を伸ばせど、果たして俺は手を伸ばせているのだろうか。


 ああ、なに も




「貴方は神澤というひとりの人間で、そこに存在しているでしょう?」
 ふと耳に音が。
 聞き覚えがあるような声にはっとなって、ぼやけた意識を必死に呼び覚ます。
 声が聞こえた方に顔を向ける。
 白い世界には嫌でも映える、黒と青。
「自分を確定させてください。まだ何もなくなってしまうには早いですよ、さん」
 その声の主が微笑んだ。俺はあっけとして、瞬きを繰り返す。
「カ、イト?」
 黒の喪服に身を包んだカイトが、床など無いように見える白い世界を歩いていく。それだけで、カイトの足下は床となって確立されていくのが分かった。
「いいえ、残念ながら貴方のよく知っている"KAITO"ではありません。ですが彼の意識も若干共有しているので、既視感があるかもしれませんが」
 すぐ近くまで歩いてくる。確かに俺のよく知っているカイトに酷く似ていた。けど、どこか違う。雰囲気と言うんだろうか?
「大丈夫ですか?」
 やや首をかしげながらこちらを覗き込むその仕草は、見知っている。
「何、が? 主語を言ってくれ、主語を」
「ああいえ、意識ははっきりしているかと思いまして。それだけ言えるようなら大丈夫ですね」
 にこり、と微笑まれた。

「歩けますか」
 そう尋ねられ、そう言えばここに来てから歩くという動作をしていないことに気付く。さらに言うなら、足の裏が地面についている感覚が、ない、なかった。ぞっとした。俺、落ちる?
 パニックになりかけた俺に対して、こうやるんですよと言わんばかりに目の前の男が背を向け歩き出す。
「ちょ、待っ……」
 黒い上着を掴んで引き留めようと腕を伸ばしたが空を掴み、前のめりに。バランスを保つために脚が前に出る。
 こつり。意外と固い音がして、俺の靴は床を踏みしめた。勢いのまま二歩三歩と歩き、男の隣まで進んでいく。
「やってみなくては分かりませんよ。さあ、少し歩きましょう」
 何事もなかったように平然と歩き出す男。意外と早足のそれに、俺は置いて行かれないように付いてくので必死だった。(置いて行かれたら、そこでおわりな気がして)

 果たしてどこへ向かっているのか、どこを目指しているのかすら分からず。けれどその疑問を口にするには時期を逃してしまった。
 俺はひたすら、男の後ろをついて歩いていった。親鳥の後ろに連なる雛の如く、金魚の糞の如く。
 会話は無かった。
 一定の間隔で響く二つの靴音を聞きながら、それでも異様なほどに現実味がないこのせかい。

 足を動かしながら俺はいろんな事を考えた。
 やっぱり俺は、あの時に死んだんだろう。苦しかったけど眠りに落ちるように意識が途切れたあの瞬間。
 あれが死? あんまりにもあっさりしていた。もっと壮絶なものだと思ってたのに。

 カイトやミクは今、どうしているんだろうか。
 ミクなんかはこれでもかというほどに泣いて、泣いて泣いてどうしようもなくなってるんじゃないか?
 目を真っ赤に腫らしているのを想像して胸が痛くなった。
 カイトは、きっとギリギリまで冷静さを保とうとしてる。つつけば崩れる危うい状態かもしれない。
 おいてきてしまったことが辛かった。本当に、まだやりたいことがたくさんあったというのに。
 それに、急すぎてなにも言えなかった。一言すら残せず。
 気持ちも伝えられなかった。

 其れが一番、心残りだった。

 
さん」
 聞き慣れない呼び方で、聞き慣れたものとよく似た声で呼ばれる。そのアンバランスさに気分が悪くなりながら、俯いていた顔を上げる。いつの間にか風景が一変していた。
 先ほどの真っ白い場所から、今度は色鮮やかな場所へ。目に入る風景全てにおいてコントラストが高く、極端な彩色が広がっている。真っ白でもそうだったが、こっちはこっちで目が痛い……。
「着きました」
 男が立ち止まり振り返る。青い目が俺を見て、ふっと細められた。ああ、その仕草が妙に懐かしい。
「……で? 何なの?」
「貴方が信じるか信じないかは別ですが、ここが現と関わっていられるギリギリのラインです」
「はあ」
 なんだか急に話が変な宗教じみてきた。思わず生返事になる。そういうのは苦手なんだ。
「ここを去るという事は、即ち貴方は輪廻転生の輪に混じり貴方個人の意識は消え、次の生までを待つ事になります」
「……俺、そういう訳分からない宗教は遠慮してんだけど……」
「信じても信じなくても、構いません。概念のようなものです」
 言葉を重ねながらも、大型デパートの店員のように男の表情は揺るぎない。
「だから?」
 自分が言うのはともかく、遠回しに言われるのは嫌いだ。

「ここは、現と関わっていられる最後の場所です。ここに来てしまえばもう戻る事は出来ず、先に進むのみです」
 くどいほどの再確認だ。
 けれど声の調子が変わったのが分かった。表情が崩れ、苦しそうな、辛そうな顔。
 俺はその表情の変化が理解できなかった。何でそんな顔をする?
「――できるならもっと歌わせて欲しかった」
 呟くように吐き出された言葉を拾った瞬間、何度も繰り返された言葉と表情の意味をくみ取った。
「っ、お前、」
 言葉を遮るように素早く腕が伸び、その指先で額を押された。

 瞬間、押し寄せる映像に息が詰まる。
 聞こえるはずのないノイズがフェード・イン。強烈な音量に鼓膜を振るわせた。
 さらに頭は今俺が見ている風景ではなくて、どこか別の風景を映し始める。



 声が。
 いや、歌が聞こえる。

 ああ……これは俺が作った曲だ。何度もリアレンジして、本当のところはもっとなんとかしたいと思ってる曲。
 カイトとミクが歌ってる。あれ、俺、黒の上下なんて買ってやってたっけ?
 ――いや、これは式場か。葬式場。なら母さんあたりが見繕ったかな。
 こんなの歌わせるとかどんな演出だよ。雰囲気違うだろ。いやまあ、これ気に入ってるけどさ。

 ミクは歌いながら泣いている。泣きながら歌うから、ブレスがめちゃくちゃだ。息も続かない。
 カイトは……・ああ、やっぱり、お前無理してるだろ。本当はミクみたいに、形振り構わず泣きたいんだろ。
 いつもの調声の時と同じように歌えていると見せかけ、所々高さが足りなかったりリズムがずれていたり。
 歌声はごまかせず、素直だった。
 
 最後のサビにかかる。
 二人の歌声に、姿にどうしようもなく胸が痛かった。
 俺のためにと歌われる歌。込められた想いを拾う度、切なさと寂しさとが押し寄せる。
 ごめんな。
 本当に、こんなはずじゃなかったんだ。



「俺は、」
 カイトが口を開く。と同時に、涙が頬を伝った。それを拭いもせずにまた口を開く。
「俺は、さんが、大好き、でした」
 ――いつもは"マスター"と呼ぶのに。いつもなら"大好きです"と言うのに。
「沢山の曲、を、歌わせてくれまし、た。何よりも、さんと過ごした日々は、かけがえのない……ものでした」
 過去形で紡がれる言葉たち。
「ありがとうござい ました」
「だいすきでした」

 歯を食いしばる。
 意味がないとは分かっていても涙を堪える。
 ごめん。ごめんな。
 手を伸ばしても、目の前の二人には届かない。抱きしめてやりたいのに。涙を拭ってやりたいのに。
 でもどこか決心したような確かさで前を見るカイトは、きっと区切りが付いているのだろう。その確かさはどうであれ。
 所持者である俺が居ないというこれからの不安は尽きないけれど、何か心に決めたのならそれでいい。
 俺が居なくても生き続けられるのなら、それが何よりも嬉しい。

 瞬きをすると涙が。


「カイト」
 届かないと分かっても手を伸ばす。静かに涙を流す頬を包むように。
「ありがとう」