めざめ 2

 例え突然、よく訳の分からない居候が増えたとしてもレイヴンの仕事が減るわけではない。
 日常的な業務の書類処理から飛び込みの仕事依頼であったり、たとえ外出中でも勤務中であれば持ち歩いているノートPCにメールは転送されてくるし、携帯の着信は増えるばかり。勤務時間中は勤めて冷静な対応を心がけているレイヴンであったが、ここ最近の立て込みようにはほとほと参っており愚痴のひとつ舌打ちのひとつでもまき散らしたいほどであった。明日が休日出勤のない休みで無ければ救いもなかっただろう。
 なんとか翌日朝一に間に合うよう書類をまとめ終わり時計を見上げると、気付けば昨日と同じような時間を示していた。PCをシャットダウンさせ部屋の戸締まりを確認してから漸く退社。凝り固まった首肩を解すように回し、空を見上げればぽかりと月が浮かんでいた。月を見上げて暫し立ち止まり、拾ってしまったとも言うべき異世界からの居候を思い出した。一体今日1日を、彼はどうやって過ごしたのだろうか。
 帰り道のコンビニで温かい缶コーヒーを購入し店の前で飲み干す。まだ少し肌寒い季節であるから、腹が温まると気分も幾らか暖まる。早く帰ろう。まだ僅かに温もりの残る空き缶をゴミ箱に投げ入れた。

「ただい、ま」
 中に人がいることは分かっているのでここ数年しばらく口にしていなかった言葉を言ってみたが、玄関に入ってすぐにレイヴンは室内の異変に気付いていた。この家は廊下の突き当たりがリビングになっており、廊下と部屋を区切るドアがある。そのドアは今は開け放たれており電気が付いて明るいリビングの様子が見えるのだ。先ほどの微妙に途切れた声で気付いたのか、そこから朝見たときと同じ服装をしたが顔を出した。
「……おかえり」
「あ、う、うん」
 予期せぬ返答にどもる。一先ずとレイヴンは自室に入って部屋着に着替える。ラフな姿でリビングに向かい、そして先日がそうなったように部屋を見て絶句した。
「……なにこれ」
「これが元の姿だった、ということで」
 部屋の隅にゴミ袋の山が築かれているが、今朝家を出たときとは一変しリビングがこざっぱりと片付けられている。同じ部屋だとは到底思えず、しかしそういえばこんな部屋をしていたという遙か彼方の記憶が蘇る。
 使用済みの食器が積み重なっていたテーブルの上はそういえばそんな物も買っていたと今更ながらに思い出したテーブルマットしか見あたらないし、背に使用済みの衣類が積まれていたソファー付近も服が見あたらないどころか、ソファーカバーと揃いのクッションがホテルかのように置かれている。
「どうすればいいのか分からない本? とかはまとめて置いてある。あと、どこに分別していいのか分からないのも分けてあるから、あとで見て欲しいです」
 まともな床などここ数年は見ていなかったレイヴンは呆気にとられの説明も頭に残らない。それでもは説明を続ける。
「服はまとめて風呂場の方に。食器は全部洗いました。ここの部屋でやれそうなことはやりましたが、あの、冷蔵庫? ですか。なんにも入ってなかったんですけど……」
 部屋の隅から隅までゆっくりと眺めていくレイヴンをは見る。そこで先ほどまでの説明を聞いていないという事に気付き、隣の男へ聞こえないようにため息をひとつ吐く。
「腹減りました」
 これならわかりやすいだろうと簡単な一言。ようやく部屋からを見たレイヴンは、ああ、とばつの悪そうな顔をする。
「ごめん、冷蔵庫何にも入ってなかったわね。……デリバリ……コンビニ……どうしようかしらん」
 台所にふらりと足を向けるレイヴンの後ろを歩きながら、は歩き方は同じなのかと"向こう側"のレイヴンを重ねていた。路地裏からこの家へ来る前にも歩く姿を見ていたはずだが、幾らか落ちついて漸く考える余裕が生まれている。ひょこひょこと、重心を左右に揺らしながらの歩き方は特徴的だ。それを数え切れないほど見ているのだから忘れようもない。
「何かがあればつくりますよ」
 冷蔵庫の前で背中を丸めるレイヴンには言葉を投げる。野菜室を漁っていた手をぴたりと止め、レイヴンは振り返ってを見た。その顔は僅かに目を見張り、驚いているようだった。
「……作れるの?」
「一通りは、これでも。――貴方の口に合うかは分かりませんけど」
 でも材料がないので。と嫌味も込めて続けるは動かなくなったレイヴンを見つめる。レイヴンは僅かに逡巡したようだったが、よっこらせといういかにもな掛け声と共に立ち上がると何か良いことを思いついた子供のような顔でへ笑みかけた。
「さばみそつくれる?」
「……つくれます」
「じゃあ、今から買い出しに行きましょ。24時間やってるスーパーが近くにあるから」
「今から? もう随分遅いですけど……」
「家事全般任せてもいいんでしょ? 採用試験とでも思って頂戴よ」
 はあ、とが生返事を返す間にもレイヴンはどこかうきうきとした足取りで部屋に向かう。財布と自らの上着、には多少サイズがあわなくてもなんとかなると思われる私服を引っ張り出してリビングへ戻る。手持ち無沙汰に台所を彷徨っていたに着替えてくるよう言いつけ、自分は財布の中身と携帯のチェック。特に重要な連絡は入っていなかった。久しぶりに好物にありつけるかもしれないという好機に、仕事での疲れが吹っ飛ぶような気持ちだった。

 レイヴンの私服を着て外出できる服装になったは、レイヴンに連れられて再び夜の街を歩いていた。今日は雨は降っていない。ただ、昨日は雨雲に隠れて見えなかった半月がぽかりと夜空に浮かんでいる。まだ少し寒い季節であるので、空気はひやりと冷たかった。
 なにか歩いてて分からない事があれば聞いて頂戴、というレイヴンの言葉には素直に甘えることにした。街灯はぽつりぽつりとあるものの、角を曲がって突然現れた光る四角い箱には驚いて思わず後ずさり、その名前を聞けば自動販売機――一般的に略すのであれば自販機――と教えられた。高速で行き来する車については、レイヴンは多少の趣味を持ち合わせていたためいくらか踏み込んだ説明をした。そのひとつひとつの説明をよく聞きながら、はこの世界にはきっと魔導器なんてないんだろうという確信を強くしていった。
 10分ほど夜道を歩いて24時間営業のスーパーに辿り着く。そこでもやはりはレイヴンの後ろを歩き、人の目を気にしながら疑問をぶつけていく。目当ての物をカゴに入れながら、レイヴンは熱心なことだとに対して感心していた。
 几帳面な質であるのかとも考えたが、いやしかし、これはもしかすると目の前の不明瞭な点を明らかにしていくことで自信の不安の紛らわせているのかも知れないとも判断する。何も分からない知る人間も居ない所に放り出され可哀想だと手放しに思うのは勝手だが、関係してしまった以上できる限りの事はしてやろうという気になっている。最初は見捨てようとしたにもかかわらず、だ。酷い奴だとレイヴンは自嘲した。それには気付いていないようであった。
 購入システムもさりげなく説明し――さすがに硬貨を支払って購入するという手順は同じだとに怒られた――家路を急ぐ。
 帰宅するともう21時を回っていた。こんな時間からさばみそを作ることになるなんてと僅かながらに呆れつつ、は昼間に綺麗さっぱり片付けた台所で調理の準備をする。買い物を終えた頃から空腹は度を超えたのか感じなくなっていたが、2人分の準備をする。
「何か手伝おうか」
 後ろでそっと控えていたレイヴンが尋ねてくる。パックからすでに切り身となっているさばを取り出しながら考えるが、手伝って貰うような項目が思いつかない。
「大丈夫です。呼んだら、お願いします」
「あいよ」
 短く返しレイヴンはリビングへと戻っていった。すぐにテレビから音が聞こえ始める。
 さてやるか、とはひとり気合いを入れる。料理は得意であったし、さばみそも頻繁にパーティーメンバーの食卓に上がっていたのだから行程に問題は何も無い。ただ、むこうとこちらの世界の関係性をそれとなく考えながら包丁を取りあげる。

 煮込まれる味噌の食欲をそそる匂いが部屋に充満し始めた頃、どうにもたまらなくなったレイヴンは台所を覗きに行った。もうほとんど完成しているような状態であったので、今更手伝おうか、と声をかける気も起きない。ひとつ予想外であったのは、あり物で汁物まで作っている事だった。レンジで温めてそのまま使えるご飯を購入していたので、レンジが稼働しているところを見ると加熱している所のようだ。
 レイヴンがやってきた事に気付くと、は食器はどうすればいいかを尋ねてきた。好きな物を使えばいいと伝えると、迷いながらも幾つかある種類の中から――ほぼ捨てるに捨てられなかったもらい物たちだ――一組を取りだす。
「立派な定食ね。……すげーうまそう」
 フライパンの中でくつくつと煮込まれるさばを覗き混み、素直な感想が口を突いて出た。
「ありがとう」
 すぐ隣から感謝の言葉が返ってくるので、何とはなしにそちらを見るとが随分とリラックスした表情で僅かに笑んでいた。視線は鍋へ注がれていたため目が合うことはなかったが、素の状態を垣間見たような気がしてレイヴンは少しむず痒くなる。思えば最初の顔合わせが最悪の状態であったから、緊張がほぐれて落ち着いてきたことが分かりそっと安堵に胸をなで下ろした。落ち着けば頭も回る。判断力が戻ればこれからについての事もきちんと考えることが出来るだろう。
 味見をして満足したのか、は鍋とフライパンの火を止め皿に盛りつける。丁度いいタイミングでレンジの加熱が終了し、そちらはレイヴンが先に手を出したためが白飯を茶碗によそう事はなかった。
 主菜に汁物、白飯の茶碗が並ぶ自宅の食卓テーブルという風景をレイヴンはとても久しぶりに見た。前回がいつだったすら思い出すことが出来ない程だが、それ以前に自宅できちんとした食事を摂ること自体が目眩がするほどの衝撃であり新鮮ささえ感じてしまうほどだった。ここに越してきてからというもの誰かが作った食事すら食べたことがなかったために、が随分と慣れた手つきで作り上げたさばみそを前にして動きを止めている。
 はレイヴンの煎れたお茶を飲みつつ、男の不審な行動に眉を潜める。作りながら、匂いのせいか空腹感が再発してしまいどうにも辛い。どうしたのかと声でもかけようとしたところで、レイヴンが静かに手を合わせた。
「いただきます」
 箸を取ってさばみそを一口。一口がでかい、と正面に座るはその様子を見て不意に過去の記憶が蘇る。まだ互いに名前も知らない時だった。あの時は自分が作ったさばみそではなかったが。
 目の前のレイヴンが咀嚼して嚥下して、閉じられている口元と伏せられた目元が緩む。白米をかっこんで、汁をすする。
「……うん、うまい。良い腕してんだね」
 疲れも吹っ飛んだような満足げな顔でに笑いかける。それは、にとっては見慣れた顔だったため返す笑みはどうにも上手くいかずに少しだけ歪になってしまう。けれどの胸には幾度無く感じてきた食事を作り提供し感謝される事の満ち足りた暖かさが溢れており、ちぐはぐな感情に戸惑うが礼は小さく呟く。そうしても箸を取り、さばみそへ向けた。

 会話のない食事も終わりがけ、再度お茶の入ったマグを取りあげたはさばみそ最後の一欠片をつつくレイヴンへ尋ねる。似ているのであればもしや、というごくシンプルな動機であった。
「さばみそ好きなんですか」
 レイヴンは視線を上げ、好きよ、と答えた。
「これだけは昔っから変わらなくてね。ファミレスとかのさばみそあんまり好きじゃなくて……。出かけに採用試験とは言ったけどほとんど勢いだったし、まさかちゃんと作れるとは思ってもいなかったし、ついでに言うならちょっと最高にうまくて感動してる」
 へらりとした笑みは照れ隠しのようにも見える。
「……君はあれだね、ちょっと緊張解けてきたっしょ?」
 はその問いかけに肯定の意味を込めて小さく頷く。やっぱり、とひとり納得するレイヴンはさばみそを綺麗に完食し、手を合わせてごちそうさまと呟いた。
 何もかも、なんだかんだと世話を焼くレイヴンがの知るレイヴンそのままであったからからもしれない、と自己判断をする。重ねてしまうのは目の前にいる男にとっては失礼な事に当たるだろうとは理解している。けれど垣間見える共通点に安堵しているのだ。


  ***


 食事の後片付けをふたりでしながら、レイヴンはに様々な事を聞いた。料理の一件で随分と緊張がほぐれたとレイヴンは判断したし、実際少し踏み込んだ事を聞いてもが嫌な顔をすることは無かった。向こうでの生活のこと、の所持品である剣のこと、何故料理が上手いのか。手を動かしながらはその一つ一つに返答をしていきつつ、自身の脳内をひとつひとつ整理していた。向こうは向こう、こちらはこちら。きちんと区切りを付けて、今何をするべきなのかを把握しなくては行動できない。まだ整理する段階には至らず、確認することで手一杯だが。

 使った食器と調理道具を片付けてシャワーも済ませ、レイヴンが気をきかせてコーヒーをふたり分用意する。――とはいえ、インスタントコーヒーもきちんと片付けられていたためその場所を尋ねる所から始まったわけだが。
 コーヒーで満たされたマグを持って、はソファーに腰掛けぼうとしている。1日動き詰めであったからか適度な疲労感と眠気が今になってやってきていた。
 ぼんやりとした頭でこれからの事を考える。目の前のことと言えば、この家の中をまともな部屋にすること。そして思考がいくらうろついても根本にあるのは、どうすればテルカ・リュミレースへ戻ることが出来るかということ。果たしてこの世界にエアルがあるのかさえ分からない。こういうとき、リタが居てくれればと思ってしまう。あの天才魔導少女のことだ、何らかの手段で調べ上げてくれるに違いない。あの気の強い口調がたった2日聞いていないだけで懐かしく思えた。
 眠気をごまかすようにコーヒーを一口含む。シャワーも浴びているから後は寝るだけだが、先ほどからちくちくとレイヴンの視線を受けていた。なにやら何か言いたげな、もしくは聞きたげな興味心の混ざった視線だ。それが気になっているが、眠気もそこそこに迫ってきているためこのコーヒーを飲みきるまではここにいようと区切りを付ける。

 新聞とマグを手にの隣に腰掛けたレイヴンは眠たそうに視線を落とす横顔を見て、ああ服を買いに行かなくてはとふいに思った。今は寝間着のようなスウェットを着ているがの方が僅かに上背もあるのだ。今日は急遽服を貸して外へ出たが、三十路も半ばの自分と服の趣味は合わないだろうと判断するしこれから先服が無ければ不便も極まるだろう。
 ざっと明日の予定を考えながら、手にしていた新聞はテーブルに放る。明日は少し起床時間を遅らせてゆっくりしよう。と、大まかなプランが決まった所で、持ったままのマグに気をつけながらどさりとソファーの背もたれに寄りかかった。
 とろりと、完璧に眠い目をしているがレイヴンを見た。そのままじいと視線が離れないため、これはそのまま続けて良いのだと判断し質問を口にする。
君は、どこから来たの」
 唐突な切り出しであったが、いつかは来るだろうという質問であったためはさして驚かない。さてどういう風に説明したらいいのか、とはぼんやり考えながら半分だけカーテンの閉められたベランダへ続くガラスを――正しくは窓の外へ視線をうつした。
「……テルカ・リュミレースから」
 眠い頭で考えても大してひねった返事は出せない。結局、簡単な一言だった。
「多分予想してたと思うけど、聞いたこと無いわね。ついでに言うなら、多分こっちにはそんな地名ないと思う」
「まあ、でしょうね。こっちは、向こうとは生活の質が違うしそもそもの原動力というか……何かをする時必要とするエネルギーが違うと思う」
「ここは科学と電気に支えられた生活ね。電気さえあれば生活は出来る、みたいな」
 まずそこから違うのかとレイヴンはひとつ頭にメモをする。まあ、最初部屋に招き入れた時からもしやとは思っていたことだ。
「最初俺の名前呼んだけど、君は俺の事知ってるの、いや、知ってたの? その場合はどうして?」
 この問いかけは、先ほどのようにすぐ返答がなかった。相変わらず視線は外へ向けたまま、どうやって言葉にしようか思い倦ねいているようだ。
 深慮するにつれては目が覚めてくるのを感じていた。眠いだのなんだのと駄駄を捏ねている場合ではなかった。テルカ・リュミレースへ戻るまでの間世話になることになったのだから、少なくとも互いの事はいくらか理解しておくことに越したことはない。
 レイヴンは急かさずに言葉を待つ。ずず、とすすったコーヒーは幾らか冷めてきて丁度飲み頃だ。
「……信じるか信じないかはともかく。向こうでは、一緒に戦って死にかけて馬鹿をして、という仲間の中にあなたと同じような見た目の男が居たので」
 と、そこでレイヴンはが自前の剣を持っていたことを思い出す。剣で戦うということから想像出来るのはファンタジーか、もしくは争いの絶えない戦争のあるような世界か。例えば、中世ヨーロッパのような。
「戦う必要がある世界なの?」
「街には結界があって、その外には魔物がうようよと。大体人々は結界のある街に住んでいるけど、ギルド、っていうのがあって、街から街へ荷物運んだり護衛したり……魔物を狩ったり、あれこれ研究したり。いろんな仕事をしてたりする」
 なるほどとレイヴンはひとり頷く。どうやら前者のファンタジーな世界であるようだと納得する。昔暇を潰すために読んでいた王道ファンタジー小説の内容が少しは役に立つのかも知れない。
 長々と返答をしつつもはまだ外を見ていた。ちびりちびりと、喋ることにより乾く喉を潤すようにコーヒーを舐めている。
「で、向こうの俺はどんなん?」
「……気になる?」
 顔を戻したは、僅かにいたずらを仕掛ける子供のような笑みを見せた。そんな表情の変化につられるようにレイヴンも自身の口元が上がるのが分かった。何か仕掛けてくるのであれば乗っかってやろう。
「すんごい気になる」
「どうしようもない女好きで野郎は二の次。美人を見かけるととにかく鼻の下が伸びてたし、あちこち適当さが見える胡散臭いおっさん。案外酒癖悪くて、変な酔い方すると絡んでくるのが邪魔だったけど……」
 怒濤の評価にレイヴンはぎょっとした。瞬時に持っていたものをテーブルに置き、両手でそのまま両耳を塞いで叫ぶ。
「あーあーあー、いい、もういいよ君! なんだかちょっとおっさん涙でそう!」
「でも、かと思いきや弓の腕は抜群だし、大体なんでもそつなくこなす。ちょっと山場があったけど、いいおっさんだった、いや、いいおっさんだよ」
 するりと笑みの種類を変えたは楽しげに、しかしすこし寂しさも織り交ぜてにこりと微笑んだ。ころころと変わる表情にどうにもついていけない、ああ年の所為かしらとレイヴンは耳に手を当てたまま三十路半ばの己を恨む。
「おなじ?」
 そのままの顔でが首をわずかに傾げて尋ねてくるので、レイヴンは苦い顔で頷いた。そうか、と一言返してはコーヒーをすする。
「まあ、そんなもんで、向こうじゃ色々やってました。あと、文字が分からないので、良かったら教えて下さい」
「えっ!? ど、どういうこと?」
「向こうとは文字が違うんです。言葉は問題なく聞こえますけど…」
 さっぱり。肩を竦めて見せるにレイヴンはやっかいな問題が残っていたと頭を抱える。思えば、問題は文字だけではなく他にも山積みのはずなのだが。
「それはゆっくり教えていくわ……仕方ない事だしね」
「すいません」
 頭を下げてくるに大丈夫だと肩を叩く。
「いいのよ、別に。マンネリ化した生活のいい刺激よ」
 苦笑するへ任せろと言わんばかりに片手で胸を叩いてみせた。

 昨日と同じように床へ直敷きした布団へ潜り込んで眠りについたは、翌日目覚めてうんと大きくのびをした。上半身を起こしてまだ眠いと駄駄をこねる目を擦り欠伸をかみ殺す。髪をうなじでひとつにまとめて薄暗い室内の天井をぼうと見上げた。きちんと布団で寝てしまうと、深く眠ってしまうせいかどうしても頭が回り始めるまで少し時間がかかってしまう。
 はゆっくり瞬きをしながら3日目が始まったと思う。けれど昨日とは違い深い絶望感は無い。戻るまでの間世話になる条件由に、暫くは忙しい日々が続きそうであった。――忙しさで気持ちを紛らわせている事は否めないが、何も出来ずに堂々巡りをするよりはずっといい。
 やれることをやらなくては。ようやく霞が晴れてきた頭でひとり頷く。居ても良い、という場所をもらえたのだからありがたく涼ませてもらう。

 別の世界へ突然飛ばされ、その理由も分からずに絶望しかけたがなんとかやっていけそうな気がする。
 ようやく、目が覚めたようだとは思った。


2014/08/10