Nivose 店にやってきた客から嫌な噂を聞いた。いい加減酒も回って(きっと梯子飲みしてきたに違いない)でろんでろんになった男曰く、赤髪のヤツが酒場を荒らして回ってるらしい。……きっとその赤髪のヤツ、というのは、隻腕で隻眼というオマケも付いているんじゃないだろうか。朝方店の掃除をしていると、モップを握る手が小さく震えているのが見えた。……俺は急いているのか。――それとも怖がっている? 衝動に突き動かされそうになる頭に、落ち着けー、落ち着けーと静かに言い聞かせる。 今日は別の客からアルコール中毒であり薬物中毒という、頭の痛くなるような(いや、なった)話も聞いた。 アルコールならまだしも、薬物ってなんだ!? ありえない。なにがあってそんな事に……。 早めに店を切り上げ食料の買い出しに市場へ出る。やっぱり、少し前に比べるとざわめきが強い気がする。 少し歩くとあっちで喧嘩、こっちで喧嘩。いつの間にこの市場は喧嘩上等になったんだ? さっさとやめなさいっ、そこ店の人が迷惑してるだろうが! ――とは言えないが。 いつぞやみたいにまた巻き込まれるのはとても嫌なので、目当ての店まではしばらく裏道を行く事にする。人通りも少なくなって大変歩きやすいです。 スリには気をつけないとな。ポケットに入れた財布を確かめる。よしよし。 マフラーを巻き直し、冷たい空気にひとつ息を吐く。 唐突に背後で足音。二の腕を容赦なく掴まれ、その痛みに眉をひそめる。 「なにすんだよ!」 一発ぐらいは殴ってやる! と勢いよく振り返ったは良かったが、振り上げた右腕が固まる。 視界には赤。もう随分見ていなかった緋。 「ロー、ラ、」 急に心臓がどくどく脈打ち始める。うわあ……。 鳶色の瞳を見上げ、俺は幾分か頬が痩けたなと思う。――そうではなくて! ぐ、と口の中の唾を飲み込んで息を吸う。 「な、にやってたんだよお前っ!」 ひとまず怒鳴るって、どんだけ空回りなの俺? 「、」 ローランが何か言いたげに俺の名前を呟いたが、黙ってろ、今は俺の番! 「あれっきり店にも来ないで! あの蜜漬け、旨かったけど最後に置いていくのは意味深すぎだろっ」 「いろいろあってな」 「何がいろいろあって、だ! というか酒臭い! どれだけ飲んでるんだよ!」 どこか淀んだ瞳が俺を見る。ああ、その淀み具合は嫌いだ。昔を思い出す―― 「何があったか知らないけどな、もう少し自重しろ! 変な噂まで……」 「もういいんだ」 俺の言葉を断ち切る一言。疲れ切ったような、重い一言。たったその一言で、さっきまでの俺の威勢は引っ込んでしまった。 「もう、いいんだ」 緩く頭を振るローラン。その緩慢な動作にははっきりと疲れが見て取れた。 「何……」 訳が分からない。 ローランが重たげに腕を上げ、とん、と俺の肩を押した。その力は思いの外強くて、俺は一歩後ろに足をやり、行動の意味が分からずローランを見上げる。 言いたいことが山ほどあった。確認したいこともあった。けれど、そんなことをすっかり(一時的にでも、だ)忘れさせるほどに、ローランは嫌な雰囲気を醸し出していた。 何も言えずにいると、ローランは踵を返し歩いて行ってしまった。我に返り追ったが、すぐに裏道から出てしまい人混みに紛れてしまう。 ああああ、折角の、機会を……。いやしかし、あのローランの状態は明らかにおかしい。 ほんっとに何があったんだよっ! 店内はほどよく賑わっていた。ガラン、とドアに付けた金属の板がぶつかって音が鳴る。入ってきた男はハンチングを目深に被っていた。 そいつは俺の正面まで来ると、懐から真白い封筒を取り出しカウンターに置いた。わりぃな、と俺が小声で囁くと大して反応もせずすぐに出て行った。 はあ、と今日何度目か分からない(数えたくもない)ため息をつき、その封筒に手を伸ばす。 あれから随分と時間が空いて、再びガランと音が鳴る。反射でドアの方を見ると、ローランだった。 昼間合ったときと大して変わらない様子で――いや、あれよりもっと酷い状態のように、見える。奥の空いていたテーブル席にどっかと腰を下ろす。 俺は何も言わず酒瓶を出し、それを手伝いに渡す。手伝い君はちょっと嫌そうな顔をしたが、(多分)大丈夫という意味で肩を軽く叩いてやると、渋々運んでいった。 ああ、昼よりも頭が冷静になってるのが分かる。なんでだろう。 別の客の注文を捌きながら、けれど意識はやはりローランに向けられていた。ちょっと目を離した隙に瓶の中身が半分ほど減っていた。なんてペースだ。 やがて酒も回り、噂通りローランは他の客に絡み始めた。というか一方的にいちゃもんを付け始める。 ここが喧嘩厳禁ということも忘れるぐらい、どうでもよくなっちまったってか? ひときわ大きな笑い声が聞こえたと同時にガラン、と来客。……見たことのない顔だ。けれど金髪でやや頬は痩け、しかも隻腕と来れば多分もう忘れないだろう。そいつが剣を持っていることに気づき、俺はその時初めて緊張を覚えた。 抜き身の剣。じわり滲む殺気。これは駄目だ! 「お客さん――」 言葉を遮るように金属板が鳴る。また新規――だがこちらは明らかにやる気満々だった。そう、殺る気満々。 幅広の黒い剣、臙脂のマント、それらとは対照的なまでの銀髪。ああもう、なんだってんだ今日は! 銀髪のヤツに突っかかった男の左腕が消えた、んじゃない、飛んだ。紅い飛沫がバッと散る。すぐ隣で手伝い君の悲鳴。 ローランは近づいてきた銀髪を先ほどと同じように憔悴した目で見上げ、何事か言いたげに口を開け、そして、腹を刺された。 頭がぼうとする。今俺はこの状況を俺の主観で見ているはずなのに、客観で見ているようなそんな違和感があった。 「Bon soir.」 銀髪が呟く、ローランが血を吐く。銀髪が容赦なく刃を上へ進ませたのが、嫌によく見える。 「Au revoir.」 再び銀髪が呟き、剣を引き抜いた。 高笑いをしながら銀髪は走り去る。 血の海。床に俯せ倒れ動かないローラン。力なく壁へ寄りかかる金髪の男。 手伝い君が俺を揺さぶりながら何か言っていたが、はっきり言って何を喋っているのか分からない。 ただ、ローランが自らの髪とよく似た色をした液体に沈んでいるのを、俺は凝視していた。 up 2009/03/24 |